慎重な本、というのが、第一印象である。単純化、平易化によって生じる誤解を避け、丁寧に論を進める、著者の真摯(しんし)な姿勢がうかがえる。
それは、サウジアラビア生まれのムスリムで米国在住の学者、という著者の出自と無関係ではない。9・11以降蔓延(まんえん)するイスラムや宗教一般を巡
る議論が、いかに短絡的に過ぎることか。序章での「西洋・非西洋を問わず、……無差別な残虐行為を正当化するために聖典の権威に訴える必要があったことは
ない」との謂(い)いは、けだし名言である。
だが本書は、ムスリム社会の代弁ではない。近代一般に関(かか)わる哲学的課題であり、普遍とみなされる近代・世俗概念への批判的考察である。
本書の核には、「なぜ『近代』が政治的目標として支配的なものとなったか」という疑問がある。そしてヨーロッパ近代の中心的概念とみなされる「世俗」を取
り上げ、それが宗教と固定的に切り離されるものではないこと、聖性と相互関連しあうことを指摘する。著者の前作「宗教の系譜」と対になる議論である。
ここでの鍵概念は、「権力」と「近代国民国家」だ。「イスラム主義が国家権力に傾倒しているのは……正当的な社会的アイデンティティーと活動の場を形成せ
よと、近代国民国家に強要されているから」だ、との指摘は興味深い。「近代国民国家は、個人の生のあらゆる側面を……規制しようとしている」がゆえに、彼
らも「世俗的世界における国家権力に無関心なままではいられない」。イスラム主義もまた、近代の中にある。
だが、近代ヨーロッパのアイデンティティー形成の中で、イスラムは鏡像的位置に置かれてきた。最も近い他者であるがゆえに、常に否定と矮小(わいしょう)化の対象となる。
ヨーロッパがイスラムを疑似文明視、脱本質化
し、ヨーロッパ内のムスリムを同化させてきた、その背景
に、著者は近代国家の多数派/少数派概念の問題性を見
る。多数
の中の少数としてではなく、世俗
ヨーロッパにおける「さまざまな少数者と並ぶひとつの少数者
」としての共存可能性
への問いは、示唆に富む。