昨日『めいぷるごにんばやしの会』で、久しぶりに「天神山」を演じさせて戴きました。
安倍晴明の出生譚として知られる室町時代の説話「葛の葉の子別れ」。そしてそれを元にした、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」の、パロディとして作られたネタだということは分かるのですが、冷静に考えるととても不思議な噺です。
主人公は“ヘンチキの源助”という、パンク系の兄ちゃんも真っ青になって逃げ出す程の、エキセントリックなビジュアルをした
男。
ところがこのインパクト絶大な“ヘンチキの源助”、物語半ばで退場し、後半は“胴乱の安兵衛”という全く別の男が主人公に入れ替わります。
物語の方も、幽霊と婚礼を上げる男……という前半の物語が「この後どうなるのか!?」と思ったらどうにもならず(笑)、まるで映画『恋する惑星』みたいに、途中から全く別のお話がスタートしてしまいます。
元々は馬鹿馬鹿しいサゲがあった滑稽噺を、サゲまでの展開をバッサリとカットし、「ある春の日のお話でございます」と、よりファンタジックなラストにしたのは、故・桂枝雀師匠。
僕自身は「ある春の日の……」の一言は言いませんが、やっぱり何だかフワフワした不思議な感覚で物語を締めたいなと思い、「浮世は一睡の夢の如し……天神山というお噺でございます」と終わるようにしています。
まぁ何にしても、笑いや爽快感やカタルシスとは縁遠い、割りきれないラスト。
たぶん落語初心者の人が聴いたら「なんじゃこのネタは!?」と、釈然とされないのではないかと思います。
この感覚、何かに似てると思ったら、まさに“夢”です。
物語の整合性が取れなかったり、出てくる人物が途中で入れ替わったり、結末が曖昧だったり……目覚めたばかりのボンヤリする頭で懸命に記憶をたどって思い出す、あの不可思議な夢の感覚。
「天神山」を演じる時によくマクラで語らせて戴いている、荘子による「胡蝶の夢」の説話。
そしてその「胡蝶の夢」の説話を意識したかのような、台詞の数々。
人情噺のように湿っぽくなる訳でなく、あくまで上方らしい賑やかで荒唐無稽な展開を貫きながら……しかし「天神山」はどこか儚げで、それ故に切なく、世の無常を感じさせるような演目です。
まるでヌーヴェルバーグの映画のような。
シャガールの絵のような。
そして、一睡の夢のような。
「天神山」に登場するのは“雌の狐”ですが、我が家に居る“雄の猫”が、「天神山」を演じる上でとても重要な存在となってくれていることも、ここに付け加えておきたいと思います。