メトロポリタン・バックボーン | 桂米紫のブログ

桂米紫のブログ

米朝一門の落語家、四代目桂米紫(かつらべいし)の、独り言であります。

小学生の頃、NHKの『みんなのうた』を好んで見ていた時期があります。

“ファミリー向け”という番組の性質上、流れるのはそのほとんどが毒にも薬にもならない、言わば当たり障りのない曲なんですが……その中に時々ドキッとするような曲が紛れていることがありまして、それが『みんなのうた』の面白いところでありました。


中でも一番衝撃的だったのが、「メトロポリタン美術館(ミュージアム)」という曲。
大貫妙子さんによるこの曲、調べてみると『みんなのうた』で、1984年に放送されていたそうです。

ポップで明るい曲調に、楽しいアレンジ。
“深夜の美術館に忍び込んだ少女の冒険”をファンタジックに綴った歌詞。
そして映像の方は、愛らしい人形アニメ。
……と、それだけを聞けば、いかにも『みんなのうた』にぴったりの“毒にも薬にもならない当たり障りのない曲”だと、誰しもがそう思うでしょう。

しかしこの曲、今もタイトルをネット検索すると「メトロポリタン美術館 歌 怖い」という予測ワードが出てくるぐらいに、当時の子供たちに強烈なトラウマを与えた超問題作なのです。


まず、ストップモーションでコマ撮りされた手作り感溢れる人形アニメが、愛らしさの底に不穏さを潜ませています。

曲の一番の出だしは、「大理石の台の上で 天使の像 囁いた」という歌詞。
人形アニメの方もそれを忠実に再現しているのですが、その描き方が……

《天使の像の台座の横で少女が眠っている》
《天使の像が動き出し、少女を方を向いて何かを囁く》
《少女がその声に気づいて目を覚まし、辺りをキョロキョロ見回す》
《天使の像が自分の方を向いてることに気づいた少女が、恐ろしくなって後ずさりする》
《遂に天使の像が台座から飛び立ち、少女に迫ってくる》

……という、ホラー映画顔負けの演出となっております。

二番に至っては、「少女がファラオの棺に呼び掛けても、五千年の夢を見続けていて起きることはない」という意味の歌詞であるにも関わらず、人形アニメの方では棺が勝手に開いて、中から包帯ぐるぐる巻きのミイラが起き上がってくる……という念の入れよう。

後年、『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』や『ジャイアント・ピーチ』、また『コララインとボタンの魔女』などの映画を観た時に、なぜか激しい既視感に襲われたのですが……それはこのヘンリー・セリック監督による一連のストップモーションアニメが持つ“愛らしさと恐ろしさの両立”という世界感が、「メトロポリタン美術館」のそれと酷似しているからだと、最近になってようやく気がつきました。


そしてこの曲最大の恐怖ポイントは、歌詞の一番最後の部分にあります。

美術館での、ちょっぴり恐ろしくも楽しい一夜の冒険は、次の歌詞と共に突如終わりを告げるのです。

「大好きな絵の中に閉じ込められた」


人形アニメの方も、スクーターに乗って美術館の中を走り回っていた少女が、突如ドガの「ダンス教室(踊りのレッスン)」という作品の余白部分に閉じ込められ、やがて絵の一部になってしまう……という描写で終わります。

子供心にとても衝撃的なラストではありましたが……なんだかここには、ハッピーエンドともバッドエンドとも言い切れない不思議な感覚が潜んでいると、当時からそんな気がしていました。


つまりこれは、“空想の世界を砦にして闘う者”についての歌なのではないかと思うのです。

「絵の中に閉じ込められる」なんて、確かに恐ろしいことです。……その覚悟が決まっていない者にとっては。
でも覚悟を決めた者にとって、「大好きな絵の中に閉じ込められる」ほど幸せなことなど、他にあるでしょうか?


例えばウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』とか、アルベール・ラモリスの『赤い風船』とか、ティム・バートンやテリー・ギリアムの諸作品とか……考えたら僕の琴線に触れる映画の多くは、「メトロポリタン美術館」と同じテーマを扱っています。

そして“ハッピーエンドともバッドエンドとも言い切れない曖昧さの魅力”を、少年時代の僕に最初に教えてくれたのも、もしかすると「メトロポリタン美術館」だったのかもしれません。


YouTubeに動画がありましたので、貼っておきます↓



この曲を『みんなのうた』で初めて聴いたのが、10歳の頃。
あれから38年経って、今や僕自身が完全に「大好きな絵の中に閉じ込められ」てしまったみたいです。

でもこれが本当に幸せなことなのかどうか……残念ながら未熟な僕には、まだそのはっきりとした答えが出せてはおりません。