「らくだ」という噺が面白いのは、このネタが“逆転”をテーマにしているからではないかと思います。
“逆転”というのはなにも、「横暴な脳天の熊五郎」と「気弱な屑屋」の力関係が、酒の力によって逆転する……という、ストーリーの表面的な点にとどまるものではありません。
もちろんそこも、「らくだ」の大きな見せ場ではありますが。
しかしそればかりではなく「らくだ」というネタは、“観客の価値観”さえをも逆転させてしまうのです。
物語の冒頭で描かれるのは、生前のらくだによる狼藉の数々と、その兄弟分・脳天の熊五郎の横暴な振る舞い。
実質的な主人公である紙屑屋は、最初彼らの「被害者」として登場します。
観客は主人公の目線で物語を見ますので、紙屑屋を苦しめるらくだや脳天の熊五郎は、憎むべき“悪者”です。
反対に紙屑屋と同じサイド……つまり“いい者”側として登場するのが、月番の者や家主といった長屋の面々。
しかし物語の中盤から、この善悪の価値観が、大きく揺らぎ始めます。
嫌われ者のらくだの死を、長屋の連中は誰一人悼もうとしません。
紙屑屋(そして観客)は、そんならくだを少しずつ不憫に思いはじめ……そして当初“悪者”だと思い込んでいた反対サイドへと、いつの間にか完全に溶け込んでいってしまうのです。
初めは“善”だと思われていた者たちの欺瞞が剥がれ落ち、“悪”だと思われていた者たちの人間味が、次第と明らかになってくる訳です。
物語の途中までただの「被害者」でしかなかった気弱な紙屑屋ですが、酒に酔って自らの過去と対峙し、虚栄を捨て去り剥き出しの状態になった結果、いつしからくだを一番悼み、慈しむ存在となっている……という、そのドラマチックな逆転劇。
紙屑屋の目線で裏長屋の光景を目にする観客の価値観をも、「らくだ」は同時に逆転させてみせるのです。
ここで描かれているのは“乱暴者たちの恐ろしさ”などではなく、逞しく生きていく上でそうならざるを得なかった“嫌われ者たちの悲哀”に他なりません。
そして物語は終盤へ向けて、更なるカオスへと突入します。
欺瞞を剥がされた“善人”たちは姿を消し、登場人物全員が剥き出しの酔っ払いとなり、遂には「火屋の番人」と「願人坊主」という、それまでには一切登場しなかったチョイ役の二人が物語を締め括ることとなります。
らくだの死体と間違われ棺桶の中に閉じ込められて、火の上でじわじわと炙られ始める願人坊主。
そんな絶体絶命の状況下で放った彼の一言が、この長講落語のサゲになります。
「ここはどこや?」
「ここは千日の火屋じゃ」
「ヒヤ?……冷やでもええから、もう一杯くれ」
いわゆる「地口落ち」と言われる、駄洒落を用いたサゲではありますが……ここには何か、人生の哲学めいたものが隠されているような気がしてなりません。
我々から虚栄と欺瞞を剥ぎ取ってしまえば、我々と「棺桶の中で生きたまま焼かれる願人坊主」とに、どれ程の違いがあるでしょうか。
いくら「平穏に生きている」と思い込もうが、上品ぶって暮らそうが、我々はみんな多かれ少なかれ、「棺桶の中に閉じ込められ、焼かれるのを待つ身」です。
そんな絶体絶命の立場に置かれながらも、我々にはその運命に抗う術がありません。
どん詰まりの状況の中、我々に出来ることと言えば……性懲りもなく煩悩剥き出しに、「冷やでもええから、もう一杯くれ」と、馬鹿みたいに呟くことぐらいなのです。
本日の『米紫の会』にご来場くださった全てのお客様に、厚く御礼申し上げます。
嫌われ者のらくだの葬礼に、たくさんの皆様がご参列くださいましたこと、あの世のらくだもきっと喜んでおることでありましょう。
『米紫の会』、次回は2月18日(金) 19時開演です!