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桂米紫のブログ

米朝一門の落語家、四代目桂米紫(かつらべいし)の、独り言であります。

日常生活に於いて、虚構と現実の境目は明確です。
でもこういう仕事をしていると、虚構が現実の世界に侵食してくる瞬間を感じることというのが、確かにあります。

例えば、落語やお芝居で一生懸命に登場人物を演じていると、その人物の気持ちになりきってしまうものです。
僕の腕前では毎回……とはいきませんが、演者の気持ちと登場人物の気持ちがうまくシンクロした時には、稽古の時には一度も口にしたことのない台詞を、虚構の存在であるはずの登場人物が、勝手に口にしたりするのです。

「演者自身が完全にコントロールしている」と思い込んでいた“役柄”が、演者の思惑を超えて独り歩きし、喜怒哀楽を暴走させる……もちろん物語が破綻してしまわないように、演者は自らの“役柄”を律しなければなりませんが、まるでそれを振り切って現実世界に侵食してこようとしてくるような“役柄”というのが、たまにおります。

もしこちらが抵抗することをやめて、“役柄”に完全に乗っ取られてしまったならば、演者である僕自身はどうなってしまうのだろう……とか、無事に幕が降りて“役柄”を演じ終わったあと、彼らの魂はどこに行ってしまうのだろう……とか、ついつい非現実的なことを考えてしまいます。

考えたら、落語にしても演劇にしても映画にしても小説にしても、虚構であるはずの物語や登場人物が、人を笑わせたり泣かせたり怖がらせたり怒らせたりして、心を揺さぶるというのは不思議なものです。
時にはそんな「ただの虚構」に、人生観を揺るがされることだってあります。

なので虚構と現実の壁は、案外薄いような気がします。

虚構の世界の登場人物たちは、きっと現実世界を生きたくてウズウズしているのでしょう。
僕らの仕事は、「演じてやっている」という驕りを捨てて、せめて上演中の舞台の上だけでも彼らを現実世界にとどめてやれるよう、努力することなのかもしれません。

まぁつまりは、ちょっとイタコに近いんじゃないかと思います。
恐山にはおりませんし、降ろす相手は実在しませんけれども。

あと、霊力は0%ですけれども。