都んぼ版 夢十夜⑧ | 桂米紫のブログ

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米朝一門の落語家、四代目桂米紫(かつらべいし)の、独り言であります。

第八夜「ドッペルゲンガー」



夜遅い時間に、いつものように私は、誰も待つ事のない我が家に帰宅してくる。

疲れた身体で鍵を開け、玄関の明かりを点ける。

…すると、誰もいないはずの家の中から、誰かがこちらへ向かって歩いてくる気配がする。

薄気味悪い思いで、私は奥の暗闇に目を凝らした。

背の低い、小柄な男がこちらに近付いてきた。

そして、上がり框のところで足を止めた。

玄関の明かりに照らされたその顔を見て、私は驚いた。


それは、私だった。


私達二人は玄関口で、しばらく無言のまま対峙した。

驚く‘私’とは対照的に‘もう一人の私’は、睨み付けるように私を見据えていた。

「お前は誰だ」とまず口を開いたのは、もう一人の私の方だった。

「桂都んぼです」と、私は芸名で答えた。

それを聞いてもう一人の私は「はぁ」と溜め息をつき、落胆した様子だった。

「お前のせいで俺の人生は無茶苦茶だ」ともう一人の私は、まだ土間で靴を履いたたままの私に向かって、続けてそう言った。

私は「ごめんなさい」と言った。

もう一人の私はまた「はぁ」と溜め息をつき、「今さら謝ったところで仕方がない」と、半ば諦めたように力なく呟いた。

私は再度、「ごめんなさい」と言った。

それには返事もせずに、もう一人の私は土間に降りて靴を履き、私の横をすり抜けるようにして、玄関から夜の闇の中へと消えていった。

私の背後で、玄関の扉がバタンと閉まった。

振り向きざまに私は一言、「さようなら」と言った。

‘あのドッペルゲンガーには、もう二度と会う事はない’
何故か私は、それをよく知っているのだった。


私は靴を脱ぎ、家に上がった。


いつもは何とも思わない「誰も待つ事のない我が家」が、今日は何だか、とても淋しく感じられた。


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