そこに行かなければ見えない景色がある。
それは人生も同じこと。
そして役職も同じ事です。
こんにちはBJです。
本居宣長さんとの付き合い。
長きに渡りました。
宣長さん、古事記からの「神(迦微)」の定義をもって「日本固有の道」を発現させようとします。
神の定義は、前回書きました。
しかし、長い間休筆しておりましたので簡単に書いておきます。
神とは、
「人だけではなく鳥や獣、木草海山など世の常にないすぐれた徳のあるもので、可畏(かしこ)き物を神という。」
「神代の神は、人であっても神である。ただの人を神とは言わない。」
であって、神は
「人智の及ばない所多く、悪神もあれば善神もある。その所業にも勝れたるもの劣りたるものありて様々であり一準に定めがたきもの。」
であります。
この、「人知の及ばないところ」という発想が大事です。
これを踏まえて・・・・
宣長さんが到達した「日本固有の道」とは、
「神皇(すめろぎ)の道」
これは何かと言うと・・・
「受行うべき道なき」を道とする。
あぁ、あぁ、あぁ・・・書いちゃった。
「行うべき道なきをもって道とする。」
・・・どうします。
これが「宣長さんが導いた答え」です。
ビックリしました?
してください。
私も一瞬本を閉じましたから。
なんじゃこら!
でしたしね。
あの、よろしければ説明しましょうか?
それとも、あきれて読むの止めます???
まぁ、読んでくれると信じて書きます。
この、なんかどうしようもない衝撃は、忘れないでください。
衝撃は飛躍の糧です。
さて宣長さん、この発想を世に問います。
大真面目。
反論は必至ですよね。
上田秋成さんとか市川匡(いちかわただす)さんとか山片蟠桃(やまがたばんとう)さんとか・・・多士済済。
その反論に答えるのですけど、うまくいかない。
上田さんとの論戦で書いた通り。
言葉にし難いものを持ってしまった思想家の悲劇かな。
なので、私の説明も尻切れトンボになります。
まずは、
「古への大御代(おおみよ)には、道といふ言挙(ことあげ)もさらになかりき、其(そ)はただ物にゆく道こそ有りけれ」
*古き時代において「道」などと言う言葉はないのですよ。しいて「道」を定義するのであれば「事実を事実として捉える」と言う事でしょうね。
でね、
「そもそも道は、もと学問をして知ることにはあらず、生まれながらの真心なるぞ、道には有りける。」
*だいたい道と言うものは、勉強して知るもんではないのよ。生まれながらに持っている真心(まごころ)に備わっているもんなのよ。
真心ってのはね。
「よくもあしくも、うまれつきたるままの心」
「道」と言う言葉自体が古代日本には無かったと言うところから始まります。
言葉が無いから思想もないと言う訳ではなく「古事記」の記述全体で表している「道」の思想があるのです。
その「道」とは何か・・・
「そも此の道は、いかなる道ぞと尋ぬるに、天地おのずからなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此の道はしも、可畏きや高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の御霊(みたま)によりて、神祖(かむろぎ)伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)の始めたまひて、天照大御神の受たまひたもちたまひ、伝え賜ふ道なり」
つまり
「天皇の天下をしろしめす道、四海万国にゆきわたりたる、まことの道」
で、あると。
言っております。
あのね、先に「古事記」は物語ですから、さとしや教えなんかは書いてないと言ったでしょ。
それを無理やり(宣長さんすいません。)「道」と定義しようとすれば、こうなるかな。
それでね。
「天地おのずからなる道」お分かりと思いますが、これは道教:老子の教え。
「人の作れる道」これは、儒教:孔子さんの教え。
それらとは違う「天皇の天下をしろしめす道」である。
おいおい。そんなこと言っても戦ばかりしていた時期もあるでしょ。
いかに天皇の天下と言えど殺戮を繰り返した歴史は、どう認識すんのよ。
って声が上がるでしょ、ね。
いや、上げてください。
こっちにも都合ってもんがありますから。
で、戦ばかりしていた時期とか天皇家での諍(いさか)いや謀殺の数々は何とするわけって声には・・・
神の所業は、「人智の及ばない所多く、悪神もあれば善神もある。」
と言う答えがあるわけです。
神の所業は、人の思いなど遥かに及ばない深い意味が隠されている、だからすべてに意味があるし、例えば悪神が勝ることもあるのよってね。
でも最終的には善神が勝つから心配しなさんな。
神の所業には、「深き妙なる理」があるのだから、と言う訳です。
これで納得いただけるとは思っていません。
が、説明はここまでです。
文句は、宣長さんに言ってください。
そそくさと終わり。
ではまた。
これより与謝野晶子さんの方が書きやすいな。
凄い歌も多いし。
そうしよう。