今回は、真面目に書いてます。
読んでも面白くないですよ、それでも読むなら文句を言わないように。
こんにちはBJです。
自分で書いておきながら後悔している私です。
あぁ、古事記に来たのか・・・・
さて、本来であれば古事記伝解釈のエピソードをもう一つ書いて退散するつもりでした。
これね、宣長さんの古事記解説(古事記伝)については、方々から批判殺到でしたので。
よって沢山の批判の中から「山片蟠桃さん論難」あたりを書いて、「お茶を濁して」終わりにしようかと考えておったのです。
しかし、なんか勢いで宣長さんの思考に入り込むことになり大変困惑しております。
まぁ、自分が悪いので仕方ないとは思いますけどね、けどね、けどね。
じゃ、私がなんとか理解しているつもりの分だけ書きましょう。
つもりですからね。
「ド・素人!」
なんですから。
間違いがあっても大目に見てください。
宣長さんは古事記注釈で何をしたかったのか、そこから入ります。
宣長さんは「古事記」を聖典として
日本独自の「道」を見つけたかった。
のです。
道と言っても道路では・・・・
もういいですよね、お約束は。
さて、江戸中期の精神的流行りものと言えば。
例えば、人の内証を極限まで高めて「悟り」に導く仏教。
例えば、人の世に内省を求め「平天下」を旨とする儒教。
例えば、無為自然の道を「至高」と位置付け不老長寿を夢見る道教。
なんですが、これらすべて「唐物」なんですよ。
中国から渡ってきた思想な訳で、日本独自の思想ではないのです。
求めていたのは、国家思想とでも言えばいいでしょうか。
「古事記」を解読して日本の国家思想を確立させる、それが目的です。
異国の思想がなんぼのもんじゃい!
って思ってはいても、では日本の頼るべき独自の思想が無いわけで。
これは、まずいと。
そこで、古事記解釈を通して「道」を確立させるのですが、なにぶん物語な訳で他の教えと違い「どうしなさい。」「こうしなさい。」なんか無いのです。
人を諭す教えが無い異様な物語。
これをどうするのか?
あの、源氏物語で見せた分析的でかつ超深読みをする宣長さん。
紫式部に憑依してもらい物語解釈を進めていった訳ですが、同じことを「古事記」でも行います。
言わば「上古の人達に憑依してもらう。」って感じです。
で、素人の私が言うのもなんですけど、源氏の場合は、式部さんに憑依されても自分を見失わなかった宣長さんが、古事記では、物語に
「喰われて」
しまいます。
物語に喰われて自分を見失い、合理的な解釈や分析の手法をどこかに置き忘れた様に思います。
神の解釈。
「何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは伝なり。」
この辺りは、古事記の最初の部分「やたらと神様が生まれる所」なんですが、結構名前の分析を行って「流石に宣長さん」と思えるのです。
ここで注意しなければいけないこと。
古事記は口伝
であると言う事です。
漢字(当て字)で古事記は書いてあると言う事を忘れてはいけません。
ですから、漢字の意味ではなく「言葉」の意味を考えることが必要になります。
ね、面倒でしょ。
宣長さんの深読み解析によれば、神と言われるものは、人のみならず、山や海、獣や鳥、草木に及びます。
「尋常ではないすぐれたる徳(こと)」のあるものすべてが神であったと。
この沢山の神様の中で人間的な性格を持つ神。
外見が人間的であったと言う方がいいかもですが・・・
あの新井白石さんが、「神とは人也」と言った神様です。
これを、宣長さんは
「そもそも神代の神は、人なれども、神なるが故に神といふ、神ならざるただの人を神とはいはず。」
神は、神である。と言ってますけど・・・
これがね、なんの説得力もないわけで。
ここら当たりから、私も苦しくなってくる。
宣長さんも一応の説明は試みています。
「神は聖人とは又大いに異なる物にて、甚奇(はなはだくすし)く霊(あや)しく坐(ざし)まして人の智のはかり知ることあたわざる所おほく、又善も悪も有りて、その徳もしわざも、又勝(すぐ)れたるもあり、劣れるも有り、さまざまにて、さらに一準に定めがたきものなり」
よけい分からなくなった?
そうなんですよ。
いろいろ語られてはいるものの分かんない!
宣長さんも「定めがたきもの」と書いているし。
これ、言葉に出来ない思考のツボでしょうか。
さて、この神様の定義から「道」の導入を行っていかれる訳ですが・・
やはり終わらなかった。
かなり「はしょって」いるのですけどね。
また次回。
あぁ、大変ですよ、これは。
思った以上にくたびれる。
そのうえ、面白くない!!!