終わりませんね、戦争。

でも我々の日常は、ほとんど変わりません。

良いことなのでしょうね。

 

こんにちはBJです。

今日は、あまり使わない言葉の話をします。

 

骨董(こっとう)って、ちょっと怪しげな趣味があります。

お金と見識と見栄と投機的な思考を持つ方々が、集められている古物のことです。

騙したり、騙されたりが日常とのことですし、騙されたと分かってもなかなか文句が言えない世界らしいのです。

 

騙された方が悪い。

 

なんか、泥棒の開き直りのような話ですけどね。

さて、なんでこんな話をしているかと言うと。

骨董好きの間では、「狐がつく」という言い方があるそうです。

私は、骨董に対して何の興味もなく。

当然、お金も見識もないわけで・・・・

ましてや、何か骨董品を持っていると言う訳ではありませんが、その「狐がつく」と言う言葉に惹かれたわけです。

 

狐がつく。

 

狐さんには、迷惑な言い方でしょうし、おそらく彼らは単に本能に従って生活を営んでおるわけでして。

それに「タヌキがつく」とは、言わないのですよね。

タヌキは、「愉快にだます」方です。

狐は「ずるがしこく油断がならない」やつでやはり騙すのです。

狐は損してますよね。

タヌキだって実物は、あんなに丸々してないし結構、精悍な顔をしてます。

なのに「愉快なポンポコ野郎」。

狐は「なにやら妖怪じみたやつ」。

 

とまれ、骨董の世界の「狐憑き」ってのは、その物に魅入られることのようです。

もう、欲しくて、欲しくてどうしようもなくなる。

誰が止めようと関係ない。

 

あれが、私を求めている。

私じゃない、あれが私を呼んでいるんだ。

 

・・ってな具合で周りが見えなくなる。

そうなると、手が付けられない。

偽物だとか、高すぎるとか、生活を考えろとか言ってもどこ吹く風。

すでに目つきが変わっている・・・らしい。

狐目ってそういう事かしら。

吊り上がって血走って、何も見えないし聞こえない。

ただただ、欲しい、自分の物にしたい!

 

と、書くと恋愛に似てくるような気がします。

それはともかく、骨董品には魔力があるみたいです。

門外漢の私でも、自分のものとなった骨董を触ったり撫でまわしたり好きな所に掛けてみたり、そうやって「いじる事の出来る」古物には魅力を感じますから。

文化財や芸術品と言われてガラスケースに収まった物より、ですよ。

茶碗や皿の美術鑑賞・・・よく分からない言葉です。

あれ、使わないと価値が無いように思えるのですけど。

茶道の催しに使われない茶器。

花を挿せない花瓶。

それになんの価値を見出すのでしょうか。

すいません、美術に対しても門外漢です。

 

話しは戻りますが、骨董の世界で「狐がついた人」には、周りが買わせないために懸命に時間を引き延ばすそうです。

これは、生活人の知恵。

時間さえ経てば大丈夫。

 

つきものは、落ちます。

 

この言い方も好きです。

付いているものだから、そこから離れると「落ちる。」。

なんかいい表現ですよね。

骨董熱も恋愛熱も、時間が経てば覚めてきますもんね、それは皆さま御存知の通りです。

とすれば、恋愛も憑物の一種かな。

 

さて、なんで狐さんが憑物の代表格なのか?

どうも、信仰が関係しているみたいです。

「お稲荷さん」の神使いは狐ですし、なんか昔から神獣扱いをされているようですよ。

たぬきさんと違って。

 

何かに取りつかれた様に物事に集中する、もしくは何かに熱中する。

それって忙しく仕事をしている時に出来ることのようです。

暇になって「では、取り掛かろうか。」では、遅い気がします。

 

やる気でないし。

 

なんか熱中できるものを持ちたいこの頃です。

当然、お金のかからない物がいいのです。

ケチですから。

熱中できる物を持っている人が、うらやましかったりして。

ではまた。

 

・・・本は買うな。

でも、本を買うのが「熱中する」とは言わないな。

「読書が好きです。」でもないな。

なんだろう?