正義対正義、イデオロギー対イデオロギー。

では、同じ正義と同じイデオロギーになれば戦争は無くなるのだろうか?

 

こんにちはBJです。

ちょっと寄り道。

私は、江戸期の思想家として「荻生徂徠」さんと「本居宣長」さんを双璧としています。

これは、私の独断も少しありますけど文句は言われないと思っています。

 

怪物って名称は、問題ありかもですけど。

 

さて、片や儒学の怪物、片や国学の怪物。

この怪物同士の接点はありません。

先に徂徠さんが亡くなっていますから。

とは言え、若いころから異常な読書家であった宣長さん。当然、徂徠さんの「弁明」「弁道」と言う書籍は読んでいます。

宣長さんは「国学」を志し「唐物」である「儒学」を攻撃します。

これは、しょうがないと言えばしょうがない。

 

だって、新儒学は盛況を極ていたし、国学はまだ未熟な新参者ですから。

御多分に漏れず、新興の「国学」は一番盛況している「儒学」を叩くことによって名を上げるしかないのです。

宣長さんは痛烈な批判を展開します。

 

が、

 

ここからが今日の本題です。

が、しかし徂徠さんへの批判は無いのです。

変な言い方ですよね。

徂徠さんの「古文辞学」を批判するのに、徂徠さん本人を批判しない。

なんじゃそら、でしょうけど。

実は、古文辞学を引き継いだ学派(蘐園学派:けんえんがくは)に対して論難を仕掛けているのです。

 

同じじゃん。

 

と思われた方、昔し私が書いた文章を思い出してください、だいぶん前ですけど。

優れた思想は、簡単に腐っていく。

と言う事なんでございますよ。

徂徠さんは、言わば頂点にいるのです。

弟子は、徂徠さん亡き後どうすればいいのか。

頂点から降りるしかありません。

それぞれ、「徂徠学を発展させた専門分野」と名付けた隠れ蓑を用意して、そろそろと降りるしかないんです。

 

蘐園学派は、すでに文化サロンのような雰囲気。

「鬼の徂徠」がいなくなり解放感、自由感ありあり。

それに対して容赦なく論難の矢を放ちます。

蘐園学派の解放感が、堕落に見えたのでしょうし、腐っていく徂徠学を見るのに忍びなかったとも考えられます。

なんか、徂徠さんの一番弟子は宣長さんじゃないかと思えるのです。

 

だってね。

 

「古文辞学」と言う儒学を徹底的に非難するためには、「古文辞学」の内容を嚙み砕いて自分の血肉にする必要があるわけです。

そして弱点を探す。

自分の血肉にすることが出来なければ、的外れな非難になり、かえって非難した人がバカに見えますから。

ですから宣長さんは、徹底的に書籍を読み込み、得意の深読みを重ねていたと考えられます。

私が、荻生徂徠の一番弟子は、本居宣長ではないかと思っている根拠は、深読み上等の宣長さんの性格なのです。

古文辞学の一番の理解者が、国学の大家であるとは普通考えませんもんね。

どっちかと言うと敵同士だし。

 

でもね。

 

宣長さん、徂徠さんが信奉した儒学の祖である「孔子さん」も好きなんですよね。

「よね。」ってまたかよ。

って思ってますでしょ。

また、なんですねこれが・・すみません。

それは、歌と礼に関する考え方なんです。

宣長さんは考えます。

 

例えば、愛する人を亡くした時、人は声を上げて泣くでしょう、その泣き声もよく聞くと声に抑揚がついています。

それは、考えてそうしている訳でもなく、また、自然に出てくる抑揚のみでもない。

声の文(あや)により心の悲しみを発しているのです。

それが「歌の始まり」となるのですけど。

 

では、誰も彼もがてんでばらばらに泣いていたら?

悲しみの共有と言うのが出来ませんでしょ。

悲しみの共有は必要か?

必要です。

人と悲しみを共有する、それこそが人間の知恵。

共有しながら、悲しみを和らげていく。

共有できるから、悲しみを発散できると言った方がいいかもしれません。

そのための葬儀なんです。

葬儀とは、礼です。

 

「されば、もろこし(唐土)にて、喪の時に哭する礼の定まりたるも、仮令(けりやう)の事なれども、もと実情を導くしかた、聖人の智は、ふかきもの也」

 

葬礼の礼とは「実情を導くしかた」と言う事です。

仕方(しかた)は形です。

形を整えて「悲しみを共有(共感)しなさい。」

礼とは、その形を教えているのです。

 

「聖人の智は、ふかきもの也」

これを「孔子さん」と思って差し支えないと思います。

宣長さんが提唱した「歌学」も情を整える作法に外なりません。

礼と重なる部分が多いのです。

 

宣長さん、度量が広いのです。

むやみに孔子さんや徂徠さんの批判はしません。

ただ、どんどん曇っていく徂徠学にひょっとすると自分の学問を重ねていたのかもしれません。

自分の教えも、そうなるかもって。

おそらく宣長さんは、徂徠さんの「言葉にできない」思いの手前まで行っていたと思います。

 

怪物を理解できるのは、怪物だけですね。

 

ではまた。

 

平和とは戦争の無い状態・・なのかな。

戦争が無ければいいのかな。

戦争の定義は???