いい加減、言葉に踊らされるのはやめましょうよ。

抽象的な言葉は、分かったような気にさせるだけ。

まず、具体的なイメージを考えてみましょう。

 

こんにちはBJです。

さて、「紫式部さん」の物語論は進みます。

心して御覧あれ。

 

源氏:「一体物語には、誰それの身の上といって、ありのままに書くことはない。

それでもいい事も悪いことも、この世に生きている人の有様の、見飽きず、聞き捨てに出来なくて、後世にも言い伝えさせたい事柄を、あれやこれや、自分の胸ひとつにおさめておけなくなり、書き残したのが物語の始まりなのです。」

 

源氏の君に物語を書く動機を語らせています。

すでに冗談に隠して、大胆な事を言っておりますから、後はたおやかな言葉の裏に隠れていればいい。

ただ、宣長さんは深追いします。

 

「人にかたりたりとて、我にも人にも、何の益もなく心のうちに、こめたりとて、なんのあしき事もあるまじけれ共、これはめづらしと思ひ、これはおそろしと思ひ、かなしと思ひ、うれしと思ふことは、心に計思ふては、やみがたき物にて、必人々にかたり、きかせまほし物也」

 

「その心のうごくが、すなはち、物の哀れをしるという物なり、されば此物語、物の哀れをしるより外なし」

 

こんな深追いをした源氏注釈はありませんでした。

「蛍の巻」を、ここまで深読みしたのは宣長さんが最初なんですけどね。

なんか、その後「蛍の巻」が「式部さん物語論」と言う説が一般的になって行くようです。

で、まだ続きます。

こんなもんじゃない。

宣長さんは深読みを続けます。

 

源氏:「唐土の物語は、その書き方が、わが国とは違っているし、また、日本の中でも昔と今では変わっているでしょう。

書き方に深さ、浅さの差はあるだろうが、物語をまったくの作り話で嘘だと言い切ってしまうのも、物語の本質を間違えてしまいます」

 

寂聴源氏のこの部分は、妙に解説ぶっています。

このあたりが、寂聴さん「式部の物語論」を意識していると思われるところであります。

ちょっと原文が必要ですので抜き書きします。

 

原文:「おなじやまとの国のことなれど、むかし、今のにかはるなるべし、深きこと、あさきことのけじめこそあらめ、ひたぶるに、そらことといひはてむも、ことの心、たがいてなん有りける」

 

ここに、喰いつく宣長さん。

私もビックリするような深読みです。

 

「深き浅きといはずして、

ことといへるに心をつくべし」

 

え~!そうなんですか?

「深きこと、浅きこと」と「深き、浅き」は何が違う

のでしょうか。

と、思ってしまう凡夫な私。

親切な宣長さんは、ちゃんと教えてくれます。

 

「深きことは、深きことばにて、異国の書物又は日本紀のたぐひの書也、浅きことは、物語類也、浅き深きは、作りやう、文章の花麗たくみにして、心を用いたるをいふ、浅きは、女もじにて、なんとなく、しどけなくかけるをいふ」

 

なるほど、文章の形態なんですね。

深きことは、深き言葉で史書なんか使われる難しい言葉。

浅きことは、浅き言葉で絵物語に使われるような優しい

言葉って事ですか。

ふ~ん。

で、それが何なんでしょうか・・・・

 

「文章詞の深浅こそ有べけれ、心は深さ浅さのけじめあるべからざれば、一向に、空言也とて、すてんも相違也と也、心の深浅はあるべからぬといふことは見えね共、けじめこそあらめ、といえる語勢にて、其心を、言外にふくめたることしられたり」

 

えっ・・・

言葉による文章の形態はあるにせよ、感動するって言う人の心の動きは、文章の形態には関係ないと言う事ですかね。

日本書記とかより絵物語(源氏物語)とかの方が、人の心を深く動かすって言外に言ってる訳ですか、本当に。

深読みに過ぎるのではないでしょうか。

完全な源氏物語擁護論ですよ。

 

「そうそう。」

 

なんて宣長さんが言う訳ないけど。

1000年前の王朝文化物語が、いまだに人の心を引き付けているとなれば納得しなきゃならんでしょうね。

 

実は、もっと面倒な深読みもあったりします。

「帚木」にある「雨夜の品定」の注釈とか。

しかし、このあたりで勘弁してください。

次回、本居宣長さんが「源氏物語」をどう捉えていたかを書いて源氏を終結にしたいと思っております。

 

まだ続くの?

・・・って思わないでください。

 

ではまた。

 

腰痛が本当に良くなった。

やっぱ体重だったんだ。

なんか悩んでいたのが、バカみたい。