騒ぎながら下校している、ちっこい中学生どもよ。

物静かな日焼けしたジジイのリックには2リットルの

日本酒が入っているのだ・・・ふふふん。

 

こんにちはBJです。

今回は、古学の流れです。

仁斎先生や徂徠さんの学派は、個人の哲学を引き継ぐこと

に似ていると書きました。

仁斎先生の古義学は、長男の東涯(とうがい)あたりが引き

継ぎます。

居眠り徂徠さんの古文辞学は、太宰春台らの枝葉に分かれて

多くが引き継ぎます・・けどね。

けどね。

両方とも厳密に言えば、引き継いではいないと思います。

 

根本的な疑問ですけど。

果たして人が、一生をかけて築き上げた思想なり哲学を誰かに

引き継ぐことが可能なのでしょうか。

無理ではありませんか?

その人と共に消えてしまう思考の手段や積疑の方法など。

そちらの方が、残された書籍よりもはるかに大切な事だと

思いますから。

 

専門化して先鋭的に教えの一端を伸ばし教化する。

そう言うことをやっていきますけど。

それは、専門化と言う名の後退であると言えます。

全体が把握できないから、何とか分かる部分を専門に教える。

そのどこが継承でしょうか。

全体を以て部分を見るのではなく。

部分のみを教える。

それを古学の継承と言い募る。

 

大才の真似をして新基軸を打ち出す。

でも矛盾がばれて急いで方向修正。

さらにまた新基軸を打ち出す繰り返し。

どっかの国に蔓延している風潮見たい。

 

仁斎先生を祖とする古学の後継者は、徂徠さん。

ですけど。

仁斎先生の古義学と徂徠さんの古文辞学は違います。

各々が別種の学問です。

古義学は、論語や孟子を哲学的に見ます、「仁即愛」。

古文辞学は、言葉の世界に入ります、文献調査的性格。

ではなんで、徂徠さんが後継者なのか。

一つは、朱子学に異を唱えたこと。

一つは、原点回帰をしたこと。

一つは、まったくの独学である事。

そして、人間性を前面に押し出したこと。

それを「古学」と言うくくりで現在表わしているようです。

 

これが継承と言う一つの形であれば、私はよく分かります。

豪傑が起こした改革は、怪物の手により定着を見る。

そんな感じ。

では、怪物の後を引き継ぐものは・・・・

いません。

残念。

まったく、仁斎さんや徂徠さんは、どうやって教えていたの

でしょうか、辛かったように思いますけどね。

彼等の教え方で一つだけ分かっていることがあります。

 

くどい。

 

くどいのですよ。

くどくて、くどくて、嫌になるぐらい、くどいのです。

何故でしょう。

それは、言葉が足りないから。

説明できる言葉が少なすぎるからです。

一流の方々は、一般人に分かりやすい言葉を選んで説明します。

けれど、分かりやすい言葉だからと言って、その教えが分かり

やすいとは限りません。

むしろ、複雑で微妙な趣旨が隠されているものです。

それで言葉を継ぐのですけど、やはり全部の説明は出来ないの

ですよ。

だから、くどくど、くどくど、同じことを何度も言うのです。

そのくどさが一流の証かもしれません。

 

言葉が足りない。

言葉に出来ない。

なんでこんなに言葉が通じないんだ。

・・・ってとこかな。

その言葉にならないことが肝心であり、教えの中核になります。

それを何とか伝えたい。

だけど、簡単に分かったなんて言われると腹が立つ。

言葉は簡単でも、中身は簡単じゃない。

相手が分かったと言っても信用しない。

 

私がその境地に行き着くまで何年かかったと思っている。

どんな積疑に耐えてきたと思っている。

お前なんかに、分かるわけがないんだ!!!

 

このくどさ。

面白いから続けます。

次回は例文を多く出しましょう。

その方が分かりやすい・・・かもしれないから。

 

ではまた。