いい思い出は、自分で美しく脚色しています。
ですから、いい思い出のままにしておくことです。
こんにちはBJです。
江戸期の官学である「朱子学」。
豪傑が、いないかと言うとそうでもありません。
今日は、朱子学の豪傑を紹介します。
江戸初期の武士に礼儀と志(こころざし)を持たせて
戦国騒乱期の主従関係から、サラリーマン武士への脱皮
を目論んだ家康さん。
朱子学と禅宗において道を示します。
幕府創設期における朱子学の代表者は「林羅山」さん。
この方は、豪傑ではありません。
なんかいいように家康さんにこき使われちゃって。
朱子学の大家だと言う感じではありません。
可哀そうですけど。
こう言うところがうまいのよね、家康さん。
でも、当の羅山さんは張り切って仏教批判をして見たり
上下の身分制度を生まれつきのものだと規定したり。
頑張ってはいるのだけど、家康さんは書記役ぐらいの評価
だったようで。
その博識でもって古事を調べたり文書を作ったりする仕事
をやらされます。
なんで、家康さんに重く用いられなかったことが分かるか。
羅山さん仏教を「虚」であると非難していたのに、家康さん
の一言で坊主になります。
「道春」さんと言う名前までつけて。
家康さんにして見れば、民間の学者を側近に加えるには坊主衆
にするしかなかっただけ、なんですけど。
彼の廃仏論など知ったことか。
・・・なわけです。
かわいそう。
羅山さんが、表にひょっこり出てくるのは、戦の大義名分つくり
大坂夏の陣の出発点。
鐘ですよ。
大阪方が京都の寺に贈った鐘の鐘銘の中に家康の文字を分断して
呪詛したと言う、言いがかり、難癖、詐欺、ごり押しをした人。
あ~あ、「人はみな聖人たるべし。」の朱子学門徒でしょ。
家康さんの命令にヘイコラしやがって・・・・
これで、大坂夏の陣勃発!
数万人が死んで羅山さん栄達。
湯島にご聖堂が建つのです、元禄期ですけどね。
なんか情けない。
その情けない羅山さんの「朱子学」にとんでもない豪傑が生まれます。
山崎闇斎(やまざきあんさい)
闇斎(やみさい)ですよ。
凄い名前。
京都で塾を開くのですけど、なんと、あの仁斎先生の塾がすぐ隣に
あったのです。
となりと言っても堀川を隔てた向かい側ですけど。
はぁ~、この年代(江戸前期)には豪傑が多いのですよ。
山崎闇斎、伊藤仁斎、山鹿素行、契沖(この人は国学ね。)
豪傑のあたり年だったのでしょうか。
さてこの闇斎さん。
もともと粗暴な人だったようで、近所で有名な暴れん坊。
偏屈で傲慢で人を侮辱する。
最低の人物評価だったのです。
「始終交はりを全うするの人なし」
とのこと。
土佐で仏門に入るも飛び出し、京都で朱子学の塾を開きます。
ただね。
この人、思い込んだら一途な人で、と言うより恐ろしいぐらい
「朱子学」を偏愛するのです。
なにしろ門弟には
「朱子学の本以外見るな!」
ですし
彼が目指したのは、朱子学の内容を精査し深めることではなく
その精神を叩き込むことだったようです。
叩き込む。
凄いことします。
おかげで門人は、塾に近づくにつれて恐れおののき、門を辞する
ときは虎口を脱する思いがしたとのこと。
そこまでして勉強しなくとも・・・と思いますけど。
あれですかね。
偏屈な変わり者は、度が過ぎると好かれると言う話し。
なんとなく門人の会話が聞こえてきそうです。
「俺なんか、闇塾(やみじゅく)2年目だぜ。」
「すっげー!よくもつな。」
「まっ、講義についていくのがやっとだけど・・・」
「だけど・・なんだ。」
「一つだけ分かっていることがある。」
「なんだよ、言って見ろよ。」
「お前らじゃひと月、もたないってことさ。」
「すっげー!!!」
闇斎さん、「朱子学」偏愛が過ぎて着るものも本の表紙も「朱色」
で通したらしいです。
ここまでくると立派です。
豪傑に値するでしょう。
ではまた。