スマホの電池が切れて「ただの箱」になったとき、知識も
スイッチオフになるのでしょうか。
それって、人間なんですか。
こんにちはBJです。
近頃、新聞の論壇とか社説とかに「論語」や「老子」の
言葉を抜粋して書かれていることが多く見受けられます。
総裁選のせいかな。
それが良い悪いではありませんで。
2500年も前の言葉がいまだに魅力を失わず知識人達の
頭によみがえるのを不思議に思っているのです。
今から2500年前と言うと日本は縄文時代の後期。
信じられます。
その時の孔子や老子の言葉ですよ。
ビックリを通り越して笑っちゃうでしょ。
人は賢くなったのか。
賢くなったように思い込んでいるだけなのか。
スマホとかPCの便利さに慣れて、自分の能力が拡大して
いると勘違いしていないか。
いや、この勘違いは怖い事です。
江戸期の思想人達は、自分たちの力量をのみを信じて思索を
深めていきます。
スマホもなく、参考文献すらもほとんどありません。
彼等の思索が妄信や狂信に陥る事が無かったのは、帰るべき
古典があったからです。
仁斎先生、徂徠さんには「論語」や「孟子」。
宣長さん、契沖さんには「古事記」や「万葉集」。
それを、独自に解読、解釈する。
誰かの注釈など信用しない。
ただ、原文のみを手本とする。
今の教育では考えられないような事を達成した人達なんです。
この豪傑達の「積疑」に匹敵するような労を取る学者が現在
いるのか。
私は、疑問に思います。
で、今日は豪傑達の流れを書いておこうと思います。
歴史ではありません。
歴史なんて簡単に言うと「怪物徂徠」が鬼のような形相で
出てきますから。
「学問は歴史に極り候事に候。」
と、おっしゃった徂徠さんです。
何も考えずに歴史なんて口走るとゲンコツが飛んできます。
さて、くどいほど書いてきましたけど、江戸期の官学は、
「朱子学」です。
林羅山さんから連綿と続く系統です。
だって江戸期が続く限り朱子学も続くのです。
この朱子学に反旗を翻したのが、仁斎先生。
前に書きましたが、
朱子学は人間性を消極的にしか見ていません。
「人はみな聖人である。」
と説きます。
悪人は、「気質の性」が曇らされているだけで、この濁りを
清めればどんな人も聖人になれると。
なんか、個性とか欲望とか不必要と言われている感じです。
んなわきゃねえだろう!
と、仁斎先生は噛みつくわけです。
人間性にもっと目を向けなければ「論語」の精神に反する
ことが分かんないのか!ってね。
で、原点回帰を行う訳ですけど。
仁斎さんの古義学は、哲学的なんです。
「仁即愛」ってそう思いませんか。
ちなみに「古義学」を含む「古学」と言われている学派は
原点回帰、つまり古典に戻ることを宣言した学派です。
この場合は、「論語」「孟子」に戻ると言うことになります。
「古学」
これね、日本独特の学派なんですよ。
そうですよね、考えてみれば誰の注釈も信用しないと決心した
人達が独自に原文を解釈したのですから。
中国の古典を日本人の感覚で解釈した初めての学派です。
仁斎先生が哲学的人類愛を説いたのですけど、江戸期でしょ。
あんまり流行らなかったようです。
人類愛と封建制を含む中央集権制は相反する考え方ですから。
ところが、これに感動しちゃったのが徂徠さん。
仁斎先生を「豪傑」と慕って手紙を書きました。
しかし・・・・
運命のいたずら!
この手紙、仁斎先生は読んでいません。
そのうえ、誤解に誤解が重なり徂徠さん激怒。
仁斎、覚悟しとけよ!
って、事になったのです。
いねむりしてればいいのに徂徠さん・・・・
「古学」両雄のいさかい。
さてどうなるでしょうか。
それは次回。
なんかシリーズ物のDVDを見てると、こんなところに影響が
出てくるみたいです。
良いも悪いも取り混ぜて。
ではまた。