では、考えるとは。

対象を得たら取込んで手放さないことです。

なんとなく恋愛に似ているような・・・

 

こんにちはBJです。

今日は「いねむり徂徠」さんの意味なんですけど。

私が勝手に付けた「あだ名」の由来を語るわけで・・・

なんか・・・すみません。

これまでもいろんな人に「あだ名」を付けてきました。

「踊る仁斎」とか「ドクター宣長」とかです。

友人に言わせると、私が良かれと思って付けている「あだ名」は、

 

「見たまま!」

 

で、あると。

ひねりもなく考え落ちでもなく、見たまま。

面白くないと言われ続けています。

で、今回の「いねむり徂徠」も同じでして・・・・

ごめんなさい。

 

徂徠さんは、芝の増上寺(今の東京は浜松町のところ)近辺の

豆腐屋を間借りして勉強にいそしんでおったようです。

*増上寺近辺ってちょっと懐かしい。

で、増上寺の若い坊さん連中に講義していたとのこと。

その増上寺が縁で「柳沢吉保」さんのところに召し抱えとなった訳です。

当然、吉保さんのところには沢山の朱子学門徒がいたのですけど・・・

前回書いた通り法と情をごっちゃにしているので吉保さんはイライラ。

そこに、すっぱり情を切り捨てて「法」を第一とする徂徠さんが来て

公義とは何かに目が覚める思いだったのでしょう。

 

では、政治に関して朱子学者と徂徠さんの違いは何か。

簡単に言うと、朱子学では為政者(幕府)が道徳的に立派であれば

同心円的に天下国家も立派に治まる、としていました。

為政者が道徳的に立派・・・すでに「情」の世界である「徳」を見ている

訳です。

徂徠さんは、為政者の主観的心情よりも、その政治的行為がどんな結果を

もたらすかを問わなければならないとします。

これは、政治とは道徳などの「情」で測るものではなく行為の結果を重要視

する見解であります。

 

朱子学に「真っ向から刃向かう」徂徠さんです。

あっ!そうだ。

前に仁斎先生を「豪傑」と書きました。

徂徠さんが仁斎先生をそう呼んだとも書きました。

では、徂徠さんは「豪傑」なのか。

いいえ・・・・

 

怪物!

 

です。

「化け物」と呼んでもいい。

江戸期の儒学をめぐる思想史において「荻生徂徠」さんは怪物です。

徂徠以前と徂徠以降に分けられるほどの怪物です。

この方に匹敵するのは、「ドクター宣長」ぐらい。

ドクター宣長は、国学における「怪物」です。

本居宣長以前と以降に分けられて考えられるような化け物です。

 

ちょっとはビックリしました。

 

ビックリしてくださいね。

さて「いねむり」の由来になります。

ある夏の日・・・・暑いのです。

エアコンなんて無いし扇風機もない。

そんな中、座敷で対座する男2人。

四書五経の素読と言うものがあります。

読み手は、小姓なんかやっている子供侍で朗々と音読するわけです。

間違うと先生から指摘されて頭をかきつつ再読です。

徂徠さんは、この「先生役」をやらされていました。

もう何万回も読んだであろう論語とかね、ど素人の下手な音読を聞く

お仕事をされていたわけです。

朝の6時ごろから夕方4時まで。

毎日、毎日・・・・毎日、毎日。

暑いし基本正座ですし音読は下手ですし、長い時間がゆっくり

経過する訳ですよ。

もう拷問のようなもの。

徂徠さんも人間ですので耐えられなかったようです。

頭ぼんやり・・・うとうと。

うとうとうとうと・・・・・

ほら!

 

いねむり徂徠!

 

でしょ!

でもね。

ここで大発見をするのです。

凡人とは違うのです。

私は、うとうとすると席を立ってタバコを吸いに行くぐらいでした

けどね。

怪物徂徠は、ものが違うのです。

 

・・・・で、引っ張って次回っと。

うーん。

うまくなってきているな、私。

 

ではまた。