考えるってのは、情報の取捨選択ではありません。

情報量が多いからと言って考えが深まる訳でもありません。

それを江戸期思想人達が教えてくれました。

 

こんにちはBJです。

忠臣蔵の続きです。

ちょっと面倒な話をしますと、前に私が引っ掛かった「封建制」

と言う言葉。

あったでしょ。

江戸幕府は、封建制と言いながらも中央集権的な政治をして

いるってね。

江戸幕府は、封建制と中央集権的な性格の2重構造だったわけです。

 

封建制は、身分制度の固定。

中央主権は、命令伝達のピラミッド型。

なんですけど。

幕府の官学である朱子学は、この2構造がごっちゃになっています。

法の世界に人情を取り入れたりするわけです。

で、この討ち入り後始末が揉めにもめたのは、この2重構造の

矛盾が両極論として提示されたからってことなんです。

 

助命を願う人達は、封建的「情の世界」の住人です。

仇討ち御免状って「仇討ちしなさい」ってことでして。

してもしなくてもいいよ、ではないのです。

「武士たるものは、親や主君の仇を討つという義務がある。」

と言う情誼的関係を基礎とした封建的組織が幕府の一面。

 

もう一方は、中央集権的な権力の集中、要は幕府が立てた法の

執行を順守させる。

例えば、殿中で刀を抜いたら切腹、お家おとりつぶしでしょって

法はそうなっているのだ・・・・ってね。

厳罰主義の方々はこちらのほうです。

いわゆる「法の世界」の住人です。

 

徂徠さんは、もともと朱子学を否定しています。

どちらかと言うと「法」の順守を取ります。

ここが、愛の仁斎先生とは違うところ。

徂徠さんは、儒教を政治学としてみなしています。

と言うより「政治」と言う実学に適応させた感じです。

 

武士にとっての封建制と言うのは、世襲制に基づく情誼的関係。

つまり人情や誠意に基づく人間関係なんですよ。

法ですべてが裁かれるなんて思っていないわけでして。

中央集権制とは相いれないものなんです。

「仇討ち上等」「討ち入り上等」「喧嘩上等」

なわけです。

 

期せずして「赤穂浪士の討ち入り」は、江戸幕府の2重構造を

表面化してしまいました。

まぁ、大石内蔵助さんもそこまでは考えていなかったでしょうけど。

 

徂徠さんの奉答書により事件は収まり、「義」は私的なもの「法」が

公の道をもたらすと理解されたわけです。

封建制より中央集権型を取ると言うことになります。

 

私の疑問もなんとなく解消に向かう訳ですけど、なんでこんな面倒な

ことをだらだら書いたかと言うと。

「忠臣蔵」が好きなんですよ。

だから、多角的に見てみたいし「忠臣蔵」討ち入りまでの場面は映画やら

テレビやらで沢山やっているのに、「忠臣蔵」討ち入り成功後の話が

少ないじゃないですか。

 

荻生徂徠さんが出てくるまで助命嘆願やら梟首運動やら沢山あったのに。

そこは面白くないとして取り上げられない。

まぁ、映画にするには地味ですわな・・・・・

静かに切腹待ちですもんね。

でも、裏ではこんなことが起こっておったのです。

 

徂徠さんにひっかけて私の好きな「忠臣蔵」を長々書いちゃいました。

すみません。

 

次回は「いねむり徂徠」の元となったお話です。

と言っても私が勝手に付けた「あだ名」ですけど。

今回よりは、ほんの少しだけ面白いと思います。

今回は、「残念回」だったように思えてきました。

反省しつつ。

 

ではまた。