お気楽に体を鍛える、ただの自己満足。

しかし、その自己満足のなんと楽しい事か。

 

こんにちはBJです。

さて、仁斎先生は「愛」だと予告しました。

愛ですよ、愛。

なんか恥ずかしい。

なんで「愛」か。

ちょっと三段論法的に行きます。

 

・朱子学は、理(ことわり)に傾倒しすぎて人の道がおざなり。

・ここは原点に戻って孔子孟子の言葉に帰れば人道が見えてくる。

・人道に必要なのは「仁義礼智」の4つ。

・中でも仁は、中核となる言葉であり他の言葉は仁のサポートである。

 

と言う見解に行き着くのです。

まっ、かなり、はしょりましたけどね。

へへへ。

で、「仁」なのですが、

「仁の徳たる大なり。しかれども一言もって之を蔽(おお)う。」

*仁の徳は大きいけど、一言でこれをあらわす言葉がある。

 

「曰く、愛のみ。」

 

なんですよ。

愛のみが、人の道で一番大切な「仁」を包括できるのです。

愛のみが・・・・・

あぁ、仁斎さんは「愛」に生きるのです。

とは言え、仁斎先生が行き着いた「愛」って人間愛の事です。

君子の道を説く論語の根源が「愛」ですから、ちょっとびっくりです。

仁斎先生の到達点は、論語の常識をくつがえします。

さてその人間愛なんですが、ちょっとだけ現代語にしますと

 

「慈愛の心は、内より外に出て至らないと言うことも達せないと言うこと

もなく、すべてに及ぶのです。

ほんの少しの残忍さや刻薄さもない心、これこそが「仁」なのです。」

 

でね。

 

「此れに在して彼れに行はれざるは、仁に非ず。一人に施して、十人に

 及ばざるは、仁に非ず。」

 

なのです。

これは、とてつもない人類愛になってきます。

なんだかんだ言っても厳しいのですよ、仁斎先生。

其の愛実心に出でて、利沢(りたく)人に及ぶとき、はじめて仁に値する

のです。

独りよがりの愛ではいけません。

「我よく人を愛し、人また我を愛する。」

でなければ。

仁を得るには、聖人になるしかないかな。

仁斎先生の哲学。

 

「仁即愛」です。

 

では、なんで愛の仁斎先生が豪傑なのか。

そして「踊る仁斎」とはなんなのか。

それは、次回。

 

あぁ、素晴らしき人類愛。

しかし私は小さな「愛」が欲しいのです。

ほんの小さな・・・・・・「子猫」ぐらいの。

猫。

いいよなぁ。

 

ではまた。