やっとクリスマスシーズンが終わりましたな。
仏教徒の我が家には関係ないですが、昨日は家族で回らない寿司屋に行きました。
しかし、回らない寿司屋で普段なかなか食べられないようなお高い寿司を食べていても味が分からず、イマイチ食も進まなかった事から結局直ぐ店を出てしまいました。
その理由はその場には居なかった祖父の事です。
本当は祖父も寿司に連れて行きたかったんですが、容態の悪化で自宅での介護がついに限界となり、先週から再び病院へ預ける事となり、今度ばかりはもう身体が持たない(年は越せない)と医者に言われ、もうこれが“最期”だと覚悟して一昨日(24日)は祖父の入る病室で簡単なクリスマスパーティーもどき(茶菓子の飲み食いと祖父にクリスマスプレゼント)を家族で行い、記念にと家族写真を撮影。
一昨日に続き昨日も夕方まで祖父の病室で過ごし「明日また来るよ」と言って病室を後にしましたが、祖父を独り病院へ残していくのは毎度まいど心苦しいです・・・。
「わしはいいから(家族3人で)食ってきんさい」
我が家の祖父は認知症も少しありますが、これまでの人生経験(若い頃の壮絶な従軍体験、戦後にいろいろ苦労した事)もあってか、ああいう状態になってもなまじワガママや文句を何一つ言わない人で、自分の気持ちよりも家族や他人の事ばかり心配・優先する人です。
だからこそ、辛くても寂しくても弱音や泣き言も言わず、本当は耐えているのが精一杯な祖父を寿司に連れて行ってやれない、家族一緒にメシを囲んでやれない自分が腹立たしいです。
もう完全に病室から動ける状態ではないし、祖父は胃ろうや点滴などの延命治療を一切拒否し、食べ物や水も受け付けない以上、“その時”を待つしかない──もはや家族には何もしてやれる事がありません。
今の現代日本が自宅で家族の看取りを出来る家庭が減った理由は看取る家族の精神的な負担だけでなく、家族にもその日その日の生活(仕事や学業)があり、これに核家族化や共働きも加われば日中は家に誰も居ない事は分かり切った事で、「最期はせめて自宅で家族と・・・」を考えていても結局は病院や施設などへ預けざるを得ず、現実はなかなか理想通りにはいかない実状を冷静に判断出来ず、感情でしか物を考えられなかった自分は甘く見ていました。
自分は父親、母親の死に目には立ち会えなかったので分からなかったですが、これが家族の看取りのしんどさなんだなと、つくづく思い知らされました。