(臨時営業)サウケン/イーブロで1p単位の割り勘、オホホとウシャシャ
2011年2月11日(金) 何が許せないと言って、私にとって「ポテチ」だの「コピペ」だの「スタバ」だの無闇やたらと言葉を省略する日本語ほど許せないものはないのだが(特にいい年をしたオッサンなどがしたり顔で使っていたりするのを見ると殺意を覚えるほどである)、此処ロンドンでも長い地名などを勝手に省略して使っている日本人が多く、海外に暮している時こそまともな日本語を話すよう努力すべきではないかと思っている中年オヤジの私としてはストレスを覚えることが少くない。 もっとも私とて「ブログ」だの「リモコン」だの(もっと言えば「テレビ」や「トイレ」などもそうである)といった省略語は気にせず用いているので安易に批判することは出来ないのだが、省略語が嫌な真の原因は言葉そのものよりも、上記の「したり顔」に見て取れるような人間的軽薄さの方なのかも知れない。 ロンドンで用いられる省略語で多いのは地名で、South Kensington(サウス・ケンジントン)→サウケン、St. John's Wood(セント・ジョンズ・ウッド)→センジョン、Swiss Cottage(スウィス・コテッジ)→スイコテ、Ealing Broadway(イーリング・ブロードウェイ)→イーブロ、High Street Kensington(ハイ・ストリート・ケンジントン)→ハイケン、などといった具合である。 日本の食材などが手に入る Japan Centre なる店も「ジャパセン」と呼ばれ、上記の Ealing Broadway 近くにあるロンドン日本人学校は「ロン日(ろんにち)」と略される。変ったところではコーヒーやパンなどを売るカフェのチェーン店「Pret A Manger(プレタ・マンジェ)」が「プレタ」とか「プレマン」などと略されているのを聴いたこともある(もっとも日本人に限らず、プレタ・マンジェ自身が自社を「Pret」=「プレット」と略称しているのだが…)。 これらの地名ですぐに気がつくのは、いわゆる駐在員たち、いや、あえて偏見を恐れずに言えば駐在員妻たち(以前も書いたように「オホホ族」)が出没していそうな場所ばかりである。子供を幼稚園や小学校に送り出して暇を持て余した奥様方(かつての言い方ならば「有閑マダム」たち)がこれらの場所でお買い物をしたり昼食をとったりしてから、午後の小粋なひと時を小洒落たカフェの席を陣取って談笑している姿が目に浮ぶようである。先日も書いた「Waitroseに行ったら他のお店になんて行けないわ」などと言い放って少しも恥じるところのないような人々である。 ちなみに以前私が住んでいたことのある Golders Green(ゴールダーズ・グリーン)というロンドン郊外の街は「ゴルグリ」と略すそうなのだが、深窓にお育ちの奥様方やそのご主人様たちとは全くご縁がなかったこともあり、幸いこうした醜悪な省略語を耳にすることはなかった。彼らが他に徘徊していそうな Sloane Square(スローン・スクウェア)や Hampstead(ハムステッド)といった場所は、「スロスク」や「ハムステ」とでも言われているのだろうか。 ロンドンに来たばかりで勝手が分らず、子供の学校の関係から他の奥様方とたまたま昼食を取ることになった家人から聞かされたことがあるのだが、彼女たちは昼食を共にした後、会計の際になると携帯電話の計算機機能を用いて1p(1ペニー=1円強)単位まで均等に昼食代を割り勘にし、レストランの片隅で小銭を取り出して几帳面にお金のやり取りをしていたそうである。 やはり彼らのように金持ちになるにはそうまで細かくお金に執着しないといけないものなのか、あるいはそこで誰かに1pでも多く払ってもらった恩をいつまでも着せられたくはないからなのか、1pといえども人に借りを作りたくないという矜持からなのか、はたまた人間なるもの、金がからむとついつい「育ち」(裕福な家に生れ育つといったようなこととは別の「人間的度量」、先回用いた「けつめんと」の大きさのことである)が出てしまうからか、その緻密な精算にかける彼女たちの情熱たるや、1日でも年長であれば目下の人間全員に奢って当然と考えるような韓国に生れ育った家人を圧倒してふかく沈黙させるには余りに充分過ぎたようである。 加えてあのレストランの何がおいしいとか、どのデパートの何が安いとかいった話題にちっともついていけなかった家人は、爾来、よほど断りづらい会合を別としてこの種のお付き合いを遠慮するようになったらしいのだが、なによりも安いことを美徳とし、外食どころか「スタバ」などで飲むコーヒーでさえ「勿体ない」と逡巡するような我が家の人間にとって、そもそもロンドンでも有数の高級住宅街にお住いの方々と同じような生活様式や思考形態が送れるはずもないのだった。スーパーマーケットで買ったインスタント・コーヒーを淹れて、庭に咲いた花でも眺めながら本を読んだり英語でも勉強していた方がよほど気楽で充実した時間を過ごせるというのである。 日本で生れ育った私にとっては割り勘という行為自体は親しい習慣であるが、10年も15年も年次の違う人間が一緒に飲み会に行って最後に割り勘などと言われると、さすがにどうかと思う。ある時も他の部署の部長様が、ロンドンに着任したばかりの後輩と話をしたいということで、私も含めて昼食に誘ってくれたことがあるのだが、後輩より10年も年長のこの部長様が最後に出したカードは何と件の「割り勘」だった。 3人合わせてもたかだか40ポンド(当時のレートでは8,000円強だったとはいえ)程度の食事である。昼食に誘ってくれたことには感謝したものの、私や後輩より遙かに高給を取っているくせに何としみったれているのだと思わずにはいられなかった。 しかしその後私はそうした「けつめんと」の小ささをほぼ日常的に目の当りにすることになった。この部長様と同じ駐在員のほとんどが、いい年をしながら、かつそれなりの給料を貰っている癖に、余りにケチケチしていることをしょっちゅう見せ付けられたのである。たまの送別会でパブなどに行くことがあっても、「行ったらいくばくかのお金を出さないといけないから」と端から来もしない人間もいれば、偉いんだから少し多めに分担金を拠出して欲しいとわざわざ頼み込んでみても頑強に拒む人間もおり、目の前に出てきた食べ物を誰が支払ったか考えもせぬままパクパク食べた挙句、「今晩は用事があるから」と自分の飲み物以外には一銭も出さずに帰ってしまう人間もいる。 先日などは、ある人が業務上の経費を立て替えて精算書を持って来たものの、金額が1.9ポンド(200円強)と少額だったので放っておいたら、翌日になって「あの金はまだか!」と凄い剣幕で言って来たので冗談かと思っていたら、どうやら本気で怒っているらしかった。余りに情けなかったので、「私は20ポンドのタクシー代だって会社に請求なんてしたことないですよ」と憎まれ口を叩いてみたら、黙ってどこかに行ってしまった。きっと入る「穴」を探しに行ったに違いない(むろん本当のところは私に憤慨していただけだろうが)。 こうした人間はいずれも40代半ばから50代のオッサンたちである。どれだけ無理な借金をして持ち家を買ったのか、どれだけ妻が散財して困り果てているのか、あるいはどれだけ高い子供の学費を払っているのか知りはしないが、こうした人間ばかり目にしているとついつい一般化して「日本人はひどく吝嗇で…」などと口走ってしまう衝動に駆られそうになる。1pまで割り勘するオホホもオホホだが、2ポンドの経費に血眼になっているような旦那たちも似たようなものである(以前も書いたように私は彼らを「ウシャシャ族」と称している)。どちらが飼い主だかは知らないが、飼い犬は飼い主に似るというやつだろうか。 しかもこうした人間に限って日々大して忙しい風もなく(はっきり言って暇そうである)、朝は遅れて来るわ、途中で会社を抜け出してどこに行ったのか分らないことは多いわ、しょっちゅう休みを取って海外旅行に繰り出すわで、要するに自分や家族のこと以外は知ったことではないのである。どこまで会社を食い物にすれば気が済むのか分らないが、これまた以前採り上げた太宰治の小説ではないが、まさに「家庭の幸福は諸悪の本」を地で行くようなものである。 むろん人間、誰しも自分が可愛い。そしてろくに英語も喋れないくせに「イーブロ」だの「サウケン」だのと知った風な物言いをし(いや、これは訂正すべきだろう。深窓のお育ちだから、さぞかし語学にも堪能であるに違いないから)、会社で旦那たちが上司に叱られてはペコペコしているさなかに、ファッションやら日本のドラマやらについて「くっちゃべって」いる奥様方のこともまたやはり可愛いのであろう。私のような下賤な人間には端から縁のない人たちではあるが、生意気を言えばこのような人々とは間違っても知り合いになどなりたくはない。仕事の関係で一緒に時間を過ごさねばならないことがつくづく恨めしい。 これ以上書くとオホホ族やウシャシャ族から闇討ちにされるかも知れない上、一応「駐在員」の末席を穢している身ゆえ天に唾することにもなりかねないので、(猛)毒を吐くのはこれくらいにしておきたい。 それにしても海外生活はこれだからやめられない。「旅の恥はかきすて」とでもいうのか、自国を出た途端に人々は何を勘違いしてかとんでもないおのれの本性を少しも躊躇うことなく晒すようになり、おかげで日々人間の浅ましさや醜さを身近に観察することが出来、貴重な人生勉強/人間観察の機会を与えられ、感謝の余り随喜の涙を流さないではいられない。 かつてロンドンで一緒に働いた同僚(上述の「後輩」である)は、生れて初めて日本を出て仕事をしに来た途端にこうした人々を目の当りにすることとなり、海外では人々の持って生れた気性が「濃縮」された上、決して「還元」されることなく、たとえジュースであっても到底飲むことが出来ないような濃度のまま残っているようだと言っていたが、まさに言い得て妙だと感心したものである。オホホやウシャシャがいる一方、こうした沈着冷静な知性や良識を持った人間がいるから、何とか私は人間存在に決定的に絶望することなく生きていられるに違いない。※写真は上から「サウケン」と「スロスク」(あいにく「イーブロ」や「スイコテ」、「センジョン」などの写真は手元になかった)。毒舌を吐きまくった口直しに、先日「サウケン」や「スロスク」周辺を歩いてアガサ・クリスティやジョゼフ・ロージーの Blue Plaque を訪ねてみた際に撮った写真も掲げておく。