2024年5月16日(木)

 書類を英国に送付してから約2ヶ月半、その書類を準備したり、前段の各種手続きをし始めてから半年以上になって、ようやくここ暫く悩まされ続けて来た問題が一応の解決を見た。

 

 前回、前々回にも書いた通り、今回私が相手にすることになった英国企業(下のロゴの銀行である)の対応は余りに一方的かつ何のプロ意識や最低限の努力のかけらも見られないもので、特に私が提出したある書類(韓国の公証人作成のもの)に関してあれこれイチャモンをつけて来た上、提出して2ヶ月も経ってから「改めてチェックし直したところ、当行所定の書式に従っていないことが判明したため、添付の書式に従って作成し直してもらって再提出してください。当該の費用や郵送代は当行で負担します」などと、到底信じがたいことをシレッと書いて来た(大した金額ではない書類作成費用や郵送代など以上に、再作成や再送付に要する時間や労力の方が遙かに負担だということを全く理解していないのである。嫌がらせのために敢えてこちらに負担を強いようとしているのかも知れないが)。

 

 

 ここに至って私や英国に住んでいる子供らの堪忍袋の緒は完全に切れ、子供の居住地区の国会議員(MP)に事情を説明し、何らかの対応をしてもらうよう陳情することになった。

 当の口座は英国在住の子供にも間接的に関係していることとは言え、一個人のこのような瑣末な問題に英国の国会議員がわざわざ関与してくれるのか私は半信半疑でいたのだが、陳情後すぐさま秘書から連絡が来て銀行に連絡を入れるとの返答があったそうである。

 

 同時に私は、2ヶ月も前に銀行に送ってあって、これまでその内容について散々やり取りしてきた書類の不備を今になって言って来る理由を知らせて欲しい、そもそも最初から韓国と英国の法律や商慣習の違いによって提出できる書類や型式には制限があることを説明して来たつもりだが、あくまで貴行の書式に拘泥するのであれば、考えうる幾つかの選択肢のうち貴行が許容しうるものを指摘して欲しいと書いて、最終的には最寄りの支店があるシンガポールにまで赴くことも辞さないとまで記した(むろん、渡航費用は銀行負担でお願いしたいと明記した)。

 

 その結果、どういう訳かいきなり、銀行の対応に不満がある場合の各種手続きの説明と、これまで受け取った書類やメールを改めて最初から見直すことにするという回答が来た。

 そしてそれから程なくして、これまでの現場担当者からではなく、苦情処理部門の責任者からメールが来、銀行側の対応に説明不足やコミュニケーション不足があったことを認め、韓国側の公証人が協力的でなかったという一応の弁解が記載された上、例外的に今回の案件はこれまで提出してもらった書類で解決することにしたいという旨が記載されていた。

 さらには上記の国会議員から銀行へ連絡があったことが触れられ、銀行側の不備による迷惑に対して50ポンドを口座に振り込んだ旨も付記されていた(端からそんなものは全く期待していなかったのだが、この微妙な金額には思わず笑いを禁じ得なかった)。

 

 これまでは何を訊いても馬耳東風で、こちらから進捗状況を尋ねない限り全く連絡もして来ず、堪りかねてこれこれこういうところにメールで連絡してみてくれとか、韓国の「公証人協会」のウェブサイトを見れば公証人の資格が十分なことは明らかだといった内容を繰り返し送ってみても明確な回答がないまま時間だけが過ぎていった。

 事態が少しも変わらない中、進捗状況を何度も尋ねると、教えてくれたメール・アドレスに連絡してみたが返事がもらえなかった、ただし公証人協会とは連絡がとれて公証人の資格確認は出来たなどと書いては来たものの、念の為そのメール・アドレスや公証人協会に英国の銀行側から連絡が行っただろうかと私からも確認をしてみると、そんな連絡は全く来ていないという答えが返って来る始末である(要は銀行側はほとんど何もせず、適当な嘘をついていたとしか思えないのである)。

 

 そのくせ国会議員(の秘書)が介入した途端、まるで手のひらを返したように案件を解決したことにするという露骨極まりない豹変ぶりにただただ呆れるしかなく、しかもこれまでの銀行側の職務怠慢や虚言には一切触れることなく、まるですべての責任が韓国側の公証人にあるかのような言い分で、私はこれまでの人生で数える程しか覚えたことのない他者に対する心底からの憤怒と憎悪とを抑えることが出来なかった。

 

 私事なのでこれ以上詳細には踏み込まないが、唯一私の過誤と言えるのは英語での手続きが面倒で住所変更などの手続きを怠っていたことだけで、要するに英国勤務時代に開設した口座を(リーマン・ショックで大幅下落してしまった英国ポンドの価値が復旧するのを待つために)そのまま維持して来ただけなのである。

 それに対して銀行側は何の具体的根拠もなしにいきなり口座を一方的に凍結し、これこれの情報を送らない限り口座をブロックするとした上、その情報を送ってからもあれこれイチャモンをつけて来て、ろくな説明も進捗状況のアップデートもせず2ヶ月以上もダラダラ「審査」なるものを続けた挙げ句、ほとんど嫌がらせとしか思えない書類の再作成・再提出を求めて来たのである(しかも韓国の法律に基づき、銀行所定の書式のままでは公証人が公証書類を出せないことを最初に説明してあったにもかかわらずである)。

 

 前回や前々回の記事にも書いた通り、今回私が体験したことはまさにかのフランツ・カフカが描いたような不条理かつ不可解で、徹底した官僚主義や一方的な強権発動に満ちみちた迷宮のような堂々巡りの状況であり、銀行側が未だ100数十年前のヴィクトリア朝に留まったままなのではないかと思ったのもあながち誇張とは言えまいと私は信じている。

 言ってしまえば、顧客の口座を人質にするという一方的に個人財産権を侵害する強権を行使しながら、現場担当者の職業意識や事務能力はそうした強権の保持者に全く見合わない素人以下のレヴェルで、そもそも一顧客の個人情報確認のために2ヶ月以上も時間を費やしながら平然としていられる時間感覚の欠如にも誠に恐れ入るよりない。

 最終的に苦情処理部門が乗り出して来たのは国会議員の介入が最大要因だとは思うものの、彼らとしても現場職員の対応のひどさや能力の低さに改めて気付いたこともあるのではないかと(あくまで希望観測的にではあるが)推察している(そうでなければ今回のような対応は今後も繰り返されて行くだけだろう)。

 

 ともあれ数ヶ月にわたる懸案は一応の解決を見た訳だが(もっともいつまた前言を翻して無茶なことを要求して来たりするのではないかと、本当には信用していない)、今の私が覚えているのは安堵でも解放感でもなく、深く癒やし難い疲弊と人間不信に他ならない(そしてすぐには治りそうもない神経衰弱と胃痛である)。

 

 それにしても今回つくづく思ったのは、会社を辞めて早12年が経過し、私という人間にはこの種の外的ストレスに対する耐性や抵抗力がすっかりなくなってしまったということである。会社員時代にはもっと切羽詰まった問題や厄介な人間関係に日々晒されていたはずなのだが、今ではこんな些細な問題に直面しただけで精神的に追い詰められ、イライラや不眠、胃痛などに悩まされてしまう始末なのである。

 それだけ普段の私が他者や社会との葛藤をほとんど覚えることなく安穏と暮らして来たということで、かくして人間は一定程度の刺激やストレスなくしてはどんどん脆弱で壊れやすくなってしまうということなのだろう。やれやれである。

 

 そんなストレスフルな時間が続く中で、私をかろうじて支えてくれたのは、前回の記事で取り上げた若い相撲取りたちの日々の精進と旺盛な食欲、さらには以下に挙げるモーツァルトの音楽だった(記事の最後を参照)。

 ほぼ1日おきに気分転換のため近所の川べりや公園に散策に行く時、私は他にもザ・ビートルズの曲やモーツァルト以外のクラシック音楽にも耳を傾けてはみたのだが、どういう訳か私の感情に最もしっくり来て何の抵抗もなく、絶え間ないストレスやプレッシャーから優しく癒してくれたのはモーツァルトの音楽、とりわけ歌劇(ジングシュピール)「魔笛」なのだった。

 あらすじはそれとなく覚えているものの、私はほとんど意味の分からないドイツ語の歌を聴き、その美しい旋律や言葉の響きに大いなる慰めを覚えたものである。むしろ意味が分からず、純粋な旋律や音韻の響きに浸ることが出来たことが、私を「言葉」という厄介なものからも解放してくれたのかも知れない。

 他者とのコミュニケーションに必須なはずの言葉も、今回のように精神構造も時間感覚も全く共有出来ない人間が相手であれば何の意味も持ち得ず、むしろ自分の放った言葉が全く反応を得られずただ虚しく消え去るだけの連続に、私は言葉というものに対する信頼すら失ってしまっていたと言って良い。

 

 それにしても、こんな個人的で瑣末な問題で国会議員(の秘書)の手を煩わせてしまったことにはただただ忸怩たる思いでいるのだが、同時にただの一市民(の家族)のために貴重な時間や労力を使ってくれた英国の国会議員というものに、良い意味で大きな驚きを覚えたのも確かである。

 そしてそうした権力や権威にはヘイヘイと従い、怠慢ではあっても具体的に何ら悪事など働いていない私のような一個人に対しては、まるで端から犯罪者相手のようなひどい扱いをし、ほとんど嫌がらせまがいの行動すら平気で取るこの銀行の体質に、私は激しい怒りや嫌悪を抱くしかないのである。

 

 前回も書いたように、私はこの何ヶ月かでつくづく人間というものが嫌になってしまい、これからはこれまで以上に見知らぬ人間とは関わらず、狭い家の中に逼塞して静かな余生を送りたいと思っているところである。

 実は上記の銀行の件以外にも、最近つい要らぬ老婆心から、あるブログで某外国語の翻訳に際して単純な思い違い(あるいは妄想)をしている人がいたので、これはかくかくしかじかという文法で、こんな意味なのですと知らせてあげたことがあるのだが、この人はこちらの指摘など(銀行と同じく)馬耳東風で、ご丁寧にもそのすぐ後に自分の妄想をさらに強調するようなブログ記事まで書いて自説を改めて誇示するだけなのだった(具体的な内容はあえて書かないでおくが、例えるならば「義父と一杯やった」という誰かの外国語の文章を、「岐阜でたくさんやった」のように訳した上、元の文章を書いた著者と岐阜という土地の関連性を無理やりあれこれ妄想しているようなものである。強調しておくが、この文章と岐阜とには何の関係もなく、単にたまたま発音が同じだったに過ぎないのだが、この人はそこに書き手のありもしない意図まで勝手に読み取ろうとしたのである)。

 こうした人については以前も当ブログで記事にしたことがあるのだが(「間違いを認めようとしない人たち(自分自身を筆頭に?)」→https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12649664541.html)、私は懲りずにまたしても同じ過ちをおかしてしまった訳である。やはり見知らぬ人間には金輪際近づかない方が良さそうである。いやはや。

 

 以下は、今回私の慰めの友となってくれたモーツァルト「魔笛」の(いずれも名盤とされる)演奏である(私は実際には手持ちのCDからダウンロードした音源で聴いていたのだが、以下には参考までにYouTubeのアドレスを貼付しておく)。

 

 

 

 

 

 

 

 以下は台詞なしの不完全版(?)なのが惜しまれる演奏だが、