2021年1月11日(月) 

 韓国ではここ数週間、日中でも最高気温が零度以下で、夜間には零下20度近くまで気温が下がる日も少なくない。そのためこれまでほぼ日課として来た夕方の散歩も中断せざるをえず(突然の気温低下のせいでか風邪のような症状がしばらく続いたこともある)、新型コロナウイルスの感染拡大もあって、ずっと家に引きこもっている。

 

 そんな中、私の住んでいるソウル南部では数日前にはかなりの降雪&積雪があり(上の写真=インターネットより拝借)、運動不足で体がすっかりなまっているにもかかわらず、久々に雪かきをする羽目になった。しかも以前使っていた雪かきの道具が見当たらず、やや大きめな箒(ほうき)1本しかなかったこともあり、悪戦苦闘しながら最後は汗まみれになって雪を除去することになり、当然体はたちまち悲鳴をあげ、翌日以降は筋肉痛に苦しむことになった。

 

 
 

 さらにその突然の雪のせいか、真夜中(午前2時過ぎ)に近所の電信柱の「柱上変圧器」に強風で飛ばされた物がひっかかり、2万ボルト超の電流が人家に流れて火災と感電事故が起き、大きな爆発音や人の叫び声に続き、消防車数台が出動する騒ぎとなった(上の写真)。

 この事故で当該アパート住人だった夫婦2名が感電死し、4歳の子供が後に残されるという悲惨な結果になり、人間の運命など「一瞬先は闇だ」と痛感させられるのと同時に、この幼い子供の将来を考えると誠に気の毒でならない。

 

 そうした日々の生活とは別に、日韓関係にはまたもや更なる暗雲が立ち込めて来ているようだが、私ごとき人間が何をほざいたところで事態は何も変化しないので、いつも通りどうでも良いことを書き連ねて行くことにする(考えてみれば昨年も、日本の首相辞任や新首相の就任、アメリカの大統領選、英国のEU離脱移行期間の終了など、私が多少なりとも関わりを持ったことのある国だけでも重大事が相次いだが、このブログでは一切とりあげなかった。それは「真面目なことは一切書かない」という当ブログの趣旨に基づくものだが、自分でもさすがにいささか浮世離れしている気がしないでもない。趣旨についての過去記事→https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502039872.html)。

 

 

 ようやく本題に入るが、これまでも何度か書いて来たように、私はもはや韓国という国やその歴史、文化などにほとんど関心がなくなってしまっている(以前はそれなりにあったのだが、徐々に興味は失われ、韓国に移り住んでからほぼ完全になくなってしまった。暫く前なら唯一の例外は韓国映画だとまだ言えたのだが、最近は映画すらほとんど見なくなってしまった)。

 だからたまに新聞記事やニュースを見る以外は、韓国関連の記事やブログなども覗くことはまずない(世に跋扈する「嫌韓派」や「反韓派」にならうなら、さしずめ私は「疲韓派」とでも言ったところだろうか。とにかくこの国にはすっかり疲れたのである)。

 それでもちょっと前まで、私と同じく韓国に住んでいる日本人のブログだけは定期的にいくつか覗いていたことがある(どのブログであるかはあえて記さないでおく)。主に自分が生活していく上で役に立つ情報を得るためだったのだが、この国に外国人(特に「日本人」という特殊な存在)として暮らす上でのストレスや悩みなど、身近で共感できるような声に接することが出来たこともある。

 

 私はインターネットの記事やブログ、SNSなどにコメントを投稿することは滅多にないのだが(はっきり言って時間の無駄だと思っている)、こうしたブログは他の在韓日本人にも参考になるかと思って何度かコメントをしたことがある。しかし結果的にそのことで、私は結局これら日本人のブログも一切見なくなってしまったことになる。

 

 その理由は、今回の記事のタイトルに書いたように、たまたま私の覗いていたブログの管理人たちが、内容に間違いがあってもそのことを認めようとせず、頑なに自説に固執する態度を繰り返し示したからである。

 間違いと言っても、むろん歴史観や政治的信条など、所詮は個人の考え方次第で、端から正しいも間違っているもないようなことに関してではない。

 そもそもたとえ他人(個人)が極めて偏った、差別的な歴史観や政治的信条などを吐露していようとも、それが政治家やマスメディアなどでない限り、あれこれ言うつもりも資格も私にはないし、正直そんなことに貴重な人生の時間を費消するつもりもない。

 

 韓国に関するブログと言っても、韓国にほとんど興味を失ってしまった私があえてチェックしていたのは、上記の通り日々の生活に役立つことか(どこのスーパーでこんなものが売られているとか、どこで安くモノが買えるとか)、趣味でやっている翻訳に役立つような韓国語に関する内容が中心だった。

 特に私が覗いていたブログ(複数)は韓国語教育を実践していたり、韓国語に関する知識を広く紹介するような内容だったため、自分の知らない文法や語法、辞書には出てこない表現や俗語など、翻訳をする上でも役立つだろうと思って参照していたのである。

 

 しかし如何に日本語ネイティヴにとって学習しやすい韓国語だとは言え(さらに韓国語を教えているような「プロ」であったとしても)、所詮は外国人であるから、入力ミスなどのケアレス・ミスも含め、たまに明らかな間違いが記されていることがある(さらに長く海外に暮らしている日本語ネイティヴの場合、その国の言葉に引きずられて日本語が明らかにおかしくなっている場合も多々ある)。

 私は自分自身でも綴りを間違えたり意味を取り違えたりすることが多いにもかかわらず、ある知人に言わせればかなりの「綴りフェチ」らしいので、自分の間違いだけでなく他人の間違いもついつい気になってしまうのである。しかも往々にして人間は自分自身の間違いには気付きづらい癖、他人の間違いにはやたらと鼻が効くという厄介な習性を持っているものである。

 

 それでもそうしたミスを見つけても大抵は出来るだけ無視することにしている。誰であれ間違いを指摘されるのは良い気持ちがするものではないし、たとえそれが明白な間違いであっても、文脈などから類推して意味が分かることが多く、看過しても構わないことからである。

 しかし「韓国語の豆知識」などを紹介する語学関連の記事における明らかな間違いは、やはり一応指摘しておいた方が、その内容が正しいだろうと思って記事を参照する他の学習者のためにもなるだろうと、コメント欄で指摘することもあった。

 

 そうした場合も出来るだけ丁寧に、かつ「これは間違いです」などと直截的な書き方は「間違っても」せず、「細かいことで恐縮ですが」というような前置きをした上で、「現行の正書法では、こういう綴りや用法の方が自然ではないでしょうか」などと、かなり婉曲的に指摘することにしていた。そして最後にも「とにかく韓国語の正書法はやたらと細かくて厄介ですね」といった感想などを付け足すことも忘れなかった。

 またコメント機能に管理人のみが参照できるものがある場合には、それを用いて他の人に間違いの指摘が分からないようにしてもいた。要するに私なりにかなり気をつかってはいたのである。

 

 ところがこれまでの私の経験からすると、たとえそれが単純な打ち間違いなどであっても(あるいはそれ故に?)、素直に認めて修正するような人はむしろ珍しく、あれこれ理由をつけて自分を正当化する人が圧倒的に多いのである。むろんよく言われるように言語は生き物であって日々変化し続け、これまで誤用だと見做されていたものが次第に一般的になり、ついには正しい用法と認められることすらある柔軟(?)な世界でもある。

 だから私も「絶対に間違っている」などと言うつもりは皆目なく、あくまで現時点のハングル正書法に基づけばこういう表記になるのではないかといった曖昧な言い方で指摘してするようにしていたのである。

 しかしこちらがどんなに婉曲的かつ丁寧に指摘してみても、まるでそうした指摘によって自分の存在が全否定されたとでも思うのか、必ず強く抗弁して来る人がいるものである。そして上に書いた、私がたまに覗いていたブログの管理人(複数)も、あいにくそういう人たちなのだった。

 

 

 繰り返すが、私は何も彼らの歴史観や政治的信条が間違っているとか、その主張が論理的ではないので容認出来ないなどと言っているのではない。例えるなら、彼らが「簡単な算数」というタイトルの記事の中で「1+1は3です」と書いているのを、「それは一般的には2ではないですか」と(やんわり)指摘しているに過ぎないのである。

 ところが彼らはそうした指摘に対しても、「いやいや、中には2ではないと言う人もいる」と主張したり、「もちろん2だと分かってはいるのだが、あえて3と書いているのだ」というような仕方で反駁してくるのである。その反駁の仕方が、例えばユークリッド幾何学に対する非ユークリッド幾何学のように、前提が異なることに起因する違いだとでも言うのであれば、私にもまだ理解できないことはないかも知れない。ところが彼らが自説を頑として枉げないのは、所詮はただ単に「そうしたくないから」でしかない(としか私には思えない)のである。

 

 私ももっと若い頃だったら彼らのそうした自己弁護や詭弁に改めて反論を試みただろうが、今はもうそんなことに時間を取られるのが単なる人生&時間の浪費だとしか思えないので、埒があかないと思った時点で、もう2度とそのブログには近づかないことにしている(そして私はこういう場合にはひどく意固地なので、見ないとなったら本当に2度と目もくれない)。

 

 他にも韓国とは全く関係ないが、ある大学教授(と言っても一般企業などを経て途中から教授になったケース)が日々更新している映画関連のブログがある。

 一応大学で教鞭を取り、その分野における「プロ」でもあるはずなのだが、私のような一アマチュアから見ても基礎的な知識や教養が明らかに不足し、しかもそのことをちっとも恥じていないような人で、やはりそのブログに記されている明らかな間違い(事実誤認)を何度か指摘してみたことがあった(私だけでなく他にもコメント欄で間違いを指摘している人が何人もいる。そもそも間違いが余りに多すぎるのである)。

 そしてこの人もまた「間違いがあっても修正しない」主義(?)らしく、誰がどれだけ指摘しようと頑として該当部分を変更しようとはしないのだ。それでも実は1度だけ、私が指摘したからか、あるいは自分でその間違いに気づいたからなのか、しばらく経ったらシレっと間違いを修正していたことがあるのだが、そういう例は私の知る限りその1度だけで、後は無反応(無視)を貫いているのである。

 修正しないのは単にコメント欄を見ていないからだろうと思ったこともあるのだが、別の(間違いを指摘する内容ではない)コメントにはたまに返答していたりするので、やはりこの人も間違いを指摘されるのが不愉快で無視を決め込んでいる口なのだろう。

 

 しかもこの人は、自分の孫と言ってもいいくらいの若い教え子たちも読んでいるにもかかわらず、日々の買い物や飲食の場面で悪質クレーマーまがいに店員を怒鳴りつけたり、酒に酔って失敗した話などまで恥ずかしげもなく書き連ね(どうやら自分では人権などに対する意識を持った「リベラル」を気取っているつもりらしいのだが、私からすれば単なるパワハラ&セクハラ親爺にしか見えないことがしばしばである)、さらには自らの若き日の恋愛話などを誇らしげに語ってみせたりしていて、全くの他人事ながら「誠に恥ずかしい」。

 ちなみにこの人は年齢的にはもうすぐ還暦のようで、ウェブサイト等に掲載される写真によれば、正直なところ(もっと見た目の貧相な私が言うのもなんだが)見た目もパッとしない典型的な中年オヤジなのだが、どういう訳か自らのファッションやブランドなどにもそれなりにこだわりがあるらしく、それもまた余計に哀れでならない(これは単に私の偏見かも知れないが・・・・・・)。

 もっともこの人は無視こそすれ、正面きって自分の間違いを正当化しようと反駁まではしないこともあり、こうした人の言動を参照することにも「人間観察」や「反面教師」としての効用があるかも知れないと、今でもこのブログは時々覗き続けていて、その滑稽&哀れな様をサディスティックに楽しんでいるところである。やはり私という人間は、相当に歪んだ(意地の悪い)性格のようである。

 

 私のこのブログでは最初からコメントのやり取りなどを一切やっていないため、事実誤認や打ち間違い、意味の取り違えなどがあっても、誰かが指摘してくれる訳ではない。むろん自分で気づいたものについては随時修正しているつもりだが、そもそも自分では全く間違いに気づいていないことも多いに違いない。

 そうでなくとも私自身、友人などから間違いをなかなか認めたがらない奴だと揶揄されたこともあり(だから上に挙げたブログの管理人たちに対する反感は、単なる近親憎悪でしかないのかも知れない)、自分が一人よがりになっていることに気づかず、他人の揚げ足を取ることで天に向かって唾するような結果にならないよう、常に自分が誤解や誤謬、独善に陥る危険性と隣り合わせであることをこれまで以上に自覚していきたいと思っているところである。


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 この間に読んだ本は、

 

・「開高健 電子全集5 ルポルタージュ『声の狩人』『ずばり東京』他 1961~1964」(Kindle版)
 主な収録作は「過去と未来の国々」(1961)、「声の狩人」(1962)、「日本人の遊び場」(「週刊朝日」1963年7月~9月連載)、「ずばり東京」(「週刊朝日」1963年10月~1964年11月連載)の4作。
 以前文春文庫Kindle版で読んだ「ずばり東京」の完全版を読むために購入したものである(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12614412072.html)。
 「過去と未来の国々」は冷戦下の中国や東欧の訪問記、「声の狩人」はイスラエルにおけるアイヒマン裁判の傍聴記と、ベルリンやモスクワ、パリなどを訪れた際のルポ(パリではサルトルとも会見)だが、60年近く経った今読んでみると、同時代を冷静かつ的確に観察し批評することが如何に困難かということを改めて感じさせる内容となっている。

 それでも開高健はまだ、招待されて訪れた中ソなどの国情や体制をも出来る限り突き放して見ようとしているのだが、彼がパリでインタビューしたサルトルなどは、この時点でもまだ社会主義体制に無邪気な(あるいは愚かな)期待を抱いているように見える(既にジッドなどがソ連という国家や社会主義体制の欺瞞を糾弾していたはずなのにである)。

 開高と同行して中国などを訪れた大江健三郎などにしても、(サルトルに追従してか?)文化大革命下の中国や北朝鮮などを称賛する文章を書き散らしていたことがあり、日本には常に批判的な眼差しを向けながら、社会主義体制下の中国や北朝鮮などにはナイーヴな期待を寄せていたという矛盾した言動は、虚構を紡ぎ出す小説家としてはともかく、現実と対峙してその実相を捕捉すべき(?)「知識人」(?)としては致命的な誤謬だったと言っていいだろう(むろん誰しもこの種の誤謬をおかす可能性はあり、後になってから一方的に批判することは歴史に対する傲慢さとも言えるのだが・・・・・・)。
 むろんどれだけ政治的・思想的に愚かだろうと、芸術的な業績さえ残せばそれで良いと言えるのも芸術家の特権であり、個人的にその思想や政治的志向はほとんど信用していない大江健三郎も、小説家としては高く評価するしかないのではあるが・・・・・・。
 「日本人の遊び場」はパチンコやボウリング、釣り堀、プールなど、当時の人々が娯楽として楽しんでいたものを現場ルポしたものだが、そもそもこの種の娯楽に全く興味のない私には興味を抱きようがなく、ほとんど読み飛ばすようにして一応読み終えた。開高健自身はそこそこ楽しんで取材しているようにも思えるが、内容にも文体にもとりたてて開高健らしさを伺い知れるようなものではなかった。
 上記の通り「ずばり東京」の完全版を読むのが目的で買ったこの電子書籍なのだが、正直残りの作品を読んでも、もはや過ぎ去った時代の残骸に接しているような気になるだけで、とりたてて興味を惹くようなものではなかった。この連載のすぐ後、開高は一種の「ご褒美」として戦争下のベトナムを訪れる訳だが、そのことが良くも悪くも彼の半生を決定づけたことは間違いなく、引き続きこの電子版全集で「その後」の軌跡を辿ってみるつもりである。

・村上春樹「国境の南、太陽の西」(講談社文庫版)
 村上春樹は同じテーマの作品を繰り返し書いており、今作と併せて短編「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」や「ノルウェイの森」、「1Q84」などを読むと、それらが同根の作品であることが分かるだろう。かつて関係のあった女(あるいは男)が死ぬか精神的に壊れてしまう(という知らせを聞く)というエピソードを含むものであれば、処女作の「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」など、さらに別の作品を付け加えることもできるだろう。
 今作の原型はもともと長編「ねじまき鳥クロニクル」に含まれていたもので、その後、妻の助言によって「ねじまき鳥クロニクル」から除外した幾つかの章を元に書き上げられたらしいのだが、正直元の「ねじまき鳥クロニクル」との関わりは全く感じられず、当初どのような形で組み込まれていたのかが却って気になる作品である。

・村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」(新潮文庫Kindle版)
 当初雑誌に発表された際に「地震のあとで」という副題がついていた本短編集は、1995年の阪神・淡路大震災をモチーフにしており、一般の世評は高いが、珍しく私小説的な「蜂蜜パイ」など新しい試みが成されている意図は買うものの、個人的にはいずれの作品も初期の短編群の出来には及ばないと感じるしかない。

 「かえるくん、東京を救う」など村上春樹らしい荒唐無稽な設定にしても、初期の羊男などのような斬新さはもはや感じられず、厳しい言い方をするなら「自己模倣」としか思えない。いつからか(長編「ノルウェイの森」以降?)村上作品に頻出するようになった大して必然性の感じられない(むしろ違和感を覚えるだけの)性描写が今短編集でもほとんど全ての作品に登場するが、その執拗さにも辟易させられる。

 表題作の「神の子どもたちはみな踊る」は、前半部のミステリアスな設定が後半の理の勝ちすぎた記述によって台無しになってしまっているのが惜しまれる(それでもこの作品は後になってからその効果がジワジワと効いて来るのも確かであり、なかなか許可が下りないとされる村上春樹作品の数少ない映画化作品のひとつが舞台をアメリカにして作られている→今作の読了後に早速見てみた)。 

 

 

 

 

・映画版「神の子どもたちはみな踊る(2008年)原題:All God's Children Can Dance」(ロバート・ログヴァル監督) 2.0点(IMDb 5.2) 日本版DVDで視聴

 舞台をアメリカに変えてはいるものの、プロット自体は原作にかなり忠実である。上記の通りいささか理に落ちたと言っていい原作後半部がこの映画ではあっさり描かれている点は良いのだが、一方で映像化して具体的なイメージが提示されてしまうと失われてしまうものも多く、それ以前にアメリカ人の視点から見た「奇妙なアジア人」像はいつもながら変テコ過ぎで(主人公は日本的な名前を持つ中国系で、物語の舞台となるのは韓国人街で親しい住民には韓国系も多いなど、設定も意図的にアジア系を混在させている「意図」がかえって気持ち悪い)、主人公の若者(Jason Lew。上の写真1枚目。今では映画監督や脚本家として活躍しているらしい)にちょび髭を生やさせているのも理解不能である(見た目の滑稽さしか感じなかった)。

 母親役を演じているジョアン・チェンはさすがに悪くないが(上の写真2番目)、原作にも母子間の近親相姦的な雰囲気が漂ってはいたものの、いささか女性フェロモンの出し過ぎで見ていて居心地が悪かった。

 写真の最後はナターシャ・キンスキーの娘ソーニャ・キンスキーだが、彼女の使い方も凡庸で気の毒なくらいだった。