2020年2月3日(月)

 今日で愛犬が死んでから丸8ヶ月である。

 

 先月も《「♡♡」のいた日々、「♡♡」のいない日々》(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12564242560.html)と題した記事を書いたばかりなのだが、この「♡♡のいた日々」という言い方の元となった映画「ハラスのいた日々」の原作(中野孝次著)を手に入れて読んでみた(文春文庫の〈増補版〉)。

 以下の写真は同文庫本よりスキャンしたものである(不器用なため微妙に斜めになってしまっているがご容赦いただきたい)。

 

この本の中で私の一番お気に入りの写真。ハラスの困った目つきがなんとも良い

 


 

 原作には映画でも描かれているエピソードも少なくないものの、映像では描き切れなかった地味で何気ない挿話や思い出話も多く、それらひとつひとつに作者夫婦の愛犬ハラスに対する愛情や懐かしさが滲み出ており、一気呵成に最後まで読み終えてしまった。特にハラスが年老いて病を得、遂に死を迎えるまでの経緯を読んでいると、我が家の愛犬の最期と否応なく重ね合わせてしまい、涙なくしては読めなかった。

 正直、随筆そのものとしては必ずしも傑出した出来ではなく、この種の個人的な思い出話はどうしても書き手の感情が先立ってしまうため、文学作品として成立させることは決して容易ではないと言える。今作は私にとって愛犬のことを改めて実感をこめて思い返す機会を提供してくれた意味で貴重ではあったものの、映画版同様、愛犬家には躊躇なく勧められても、犬や動物に何の思い入れもない人に推薦しようとは思わない。

 ちなみにハラス(Harras)という名は、ドイツ文学者でもあった著者・中野孝次が日本語に訳したギュンター・グラス著「ダンツィヒ3部作」のひとつ「犬の年」に出てくる犬の名前から取られたものだそうで、ドイツでは大型シェパードによく付けられる名前だとのことである。

 また、かの二葉亭四迷が大変な愛犬家であり、小説「平凡」に犬に関する愛情溢れる記述があるということも本書で知り、犬のことも文学をも深く愛する私には貴重な情報であり、近いうちにKindle端末に入れたまま積ん読になっているこの作品を読んでみたいと思っている。

 ハラスと、2004年に亡くなって天国でハラスに再会しているだろう中野孝次氏に対する追悼の意を込めて、以下に上記の文庫本からスキャンした写真を何枚か貼っておきたい。

 

    著者宅に来て2日目の幼いハラス


 下の写真のように、我々人間に屈託なく無心に寄り添ってくれる姿を目にする時ほど、犬や動物と共生することの幸福を実感することはない。

    亡きハラスをいつまでも見守る中野孝次夫妻

    ハラスの墓

 

 この本で何よりも印象的だったのは、「犬と暮らす日々のうち一番多くの喜びを与えられるのは、言うまでもなく仔犬の時代、それから元気旺んな若犬の時代である。(中略)わたしに言わせれば、犬との絆が本当に一体となるのは実はその盛りのときを過ぎてからなのであるけれども」(55ページ)という箇所である。幼い時の犬は誰から見ても愛らしく、無条件に可愛がって慈しむものだが、犬と共生する中で飼い主が最も深い結びつきを感ずることになるのは犬が年老いてからだ、ということなのだが、これは私にも実感としてよく分かることだと言っていい。

 しかし一方で、我が家の愛犬の15年の生涯のうち、私が共に時間を過ごすことが出来たのは後半のわずか7年間でしかなく、愛犬が仔犬だった時や最も元気だっただろう「若犬」時代を知らない身としては、初めて愛犬と対面した瞬間から、その愛らしさを無条件に慈しむよりも、遠からず訪れるだろう死を常に意識してあわれに思う気持ちの方が強く、もっと元気だった頃の愛犬と時間を過ごせていたらと悔やまずにいられないのも確かである。

 今も私は日々、愛犬にしてやれなかったことや、こうしてやるべきではなかったかという自問を際限なく繰り返しては深い後悔に苛まれ続けているのだが、一方で愛犬の前半生を知ることなく、15年の生涯の半分にもならない7年間しか一緒にいられなかったことを惜しむ気持ちも同じくらい強い。

 むろんこの本を読みながら、ハラスと共に過ごした13年近い日々を懐かしみ、その不在を悲しむ著者夫婦の気持ちは痛いほどよく分かるし、深い同情と強い共感を覚えもするのだが、同時に私はハラスという犬の生涯のほとんどの時間を共に生きられた彼らが羨ましくてならないのでもある。むろん共に過ごした時間が長ければ長いだけ、相手を失った喪失感や悲しみがより深いだろうことも理解してはいるのだが・・・・・・。

 

 この後、私は我が家の愛犬について長文をしたため、一旦はそのまま掲載しようかとも思いもしたのだが、余りに個人的な内容なのでやはり載せるのはやめておくことにする。その代わりに、これは今でも見返すのがつらいのだが、愛犬が隣の公園を散歩した時の写真(死の約1ヶ月前のもので、既に立っているのがやっとという状態で、結局これが生涯最後の散歩になってしまった)と、まだ元気だった時に大好きだったキュウリをじっと待っている写真を掲げておくことにする。RIP.

 

 最後の散歩の時の写真(毛もボサボサで、黒く湿っていた鼻もすっかり乾いて白くなってしまっている)。

 大好きなキュウリが貰えるのを待ってじっと私の手を見つめているところ。こうした純粋で一点の曇りもない「目」に限りない愛おしさを覚えたものである。