2020年1月3日(金)

 そうこうしているうちに年が明けた。

 そして今日は昨年6月に死んだ愛犬の(7ヶ月目の)月命日である。

 愛犬と同じヨークシャー・テリアを3匹飼っている人のインスタグラムで、毎日チェックしているものがあるのだが、昨年最後にアップされたのは以下の写真(とコメント)である(その後このインスタグラムは突然更新されなくなってしまった)。

 https://www.instagram.com/p/B6vAv_kghob/

 

 

 この人も昨年、愛犬「あずき」ちゃん(上の写真の左端)を亡くしており、コメント欄にはこうある。

 

 「ベストナイン2019(★)をやってみたらあずきがいなかった
 あずきがいた2019年、さようなら
 私たちの心にはずっといるよ」

★これが何なのか正確には知らないのだが、各人が過去1年で思い出深かった写真を9枚、以下のようにまとめてひとつのイメージにしてインスタグラムにアップすることのようである。→https://www.instagram.com/explore/tags/%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%B32019/

 

 

 これを読んだ瞬間、我が家にも今年(今となっては去年だが)、いや、わずか半年ほど前には「♡♡」がいたのに、今はもういないのだという事実を改めて実感させられ、胸が締め付けられる思いがした。

注:「♡♡」は亡き愛犬の名前(の伏せ字)。これまで「○○」と表記していたが、その後このブログでこの「○○」を違う意味で用いて来たため(もっともここにどのような言葉を入れるかは読まれる人の自由なのだが)、多少気恥ずかしい記号ではあるが、過去のものも含めて「♡♡」と表記することにした。

 この人や我が家だけでなく、昨年大切な存在(犬や他の動物、そして人間も含めて)を失った人はこの世に無数に存在するだろう。そして彼らもまた、今は亡き愛しきものたちがまだ存在していた1年の終わりを見送り、もはや彼らが存在しない新たな1年を静かに迎えたに違いない。

 むろん1年などという単位に私は大した意味があるとは思っていないし、こうして毎月愛犬の死に触れている月命日などはさらに無意味なものでしかないだろう。それでも自然や気候は地球の公転に従ってほぼ1年で繰り返し、数ヶ月後には愛犬が死んだ季節が確実にまた巡ってくる。そうすれば私は自ずとその時の空気の温度や風の感触などを思い出し、愛犬の死そのものをありありと追体験することになるだろう。我々の記憶は、否が応にも時々の季節や気候と離れがたく結びついているのだ。

 そして今の私は、昨年それぞれの「あずき」や「♡♡」を失った多くの人たちと共に、もはや愛しきもののいなくなった新たな年を従容と迎え、粛々と生きていくことを願っている。「彼ら」はもはやこの世には存在しないが、しかし今も我々の心のうちに確かに存在してもいる。そのことを改めて噛み締めながら、私はこの2020年という年を静かに耐えていこうと思う。

 

 

 

 ちなみに今回タイトルに掲げた「♡♡のいた日々」という言葉は、作家でドイツ文学者でもあった中野孝次のエッセイ(及びそれを原作とする以下の映画)から勝手に拝借したものである(最初に掲げた写真は映画のDVDのカヴァー。上の2枚はハラスについて書かれたもうひとつの著書「ハラスよ!! ありがとう」の表紙で、写っているのは実際のハラスだと思われる。→その後、この題名自体、大佛次郎の「猫のいる日々」から取られたのではないかと思うようになった)。

 ちょうど年の瀬ギリギリに私はこの映画を見、自分だけの「♡♡のいた日々」を振り返り、その重みを改めて痛感させられたのだった。RIP.

 

 

・「ハラスのいた日々(1989年)」(栗山富夫監督) 3.0点(IMDbなし。CinemaScapeは5点中3.6点) 日本版DVDで視聴
 原作未読。山田洋次/朝間義隆という名コンビの脚本ながら、映画そのものの出来は平凡極まりない。それでも犬を飼ったことのある(そして何よりも亡くしたことのある)人にとっては決して涙なくしては見られない作品だろう。映画自体は1点でも多いくらいだが、個人的な思い入れをこめて上記の点数を献上。
 年老いて弱々しくなった愛犬ハラスを元気づけようと、飼い主夫婦(加藤剛、十朱幸代)は、子犬だった頃スキー場で遊ばせた雪山にハラスを再び連れて行くのだが、ちょっと目を離した隙にハラスは姿を消してしまう。地元の人たちの協力を得て夫婦は何日間もハラスを探し回るものの手がかりは得られず、これ以上まわりに迷惑をかけられないと諦めて帰京を決めた時、当のハラスはどこからかひょいと現われる。

 如何にも作り物めいたこんなエピソードも、原作を読んでいないため、どこまで事実に基づいているか分からないのだが、夫婦とハラスとが再会する場面に思わず落涙してしまうのは、むろん愛犬「♡♡」を失ったことを未だに乗り越えられていない私の単なる感傷でしかないだろう。

 従って今作は愛犬家にはお勧めだが、そうでない人には全く勧めようと思わない「見る者を選ぶ」作品である。そして犬を愛する者からすれば、今作における犬の扱いは決して褒められたものではなく、ハラスを演じた犬が気の毒でならなかったことも書き添えておきたい。

 ちなみにHarras(映画の中では「ハラース」と発音すると解説されている)とは(作者の中野孝次が文学を専門とする)ドイツでよく犬につけられる名前とのことで、元々はドイツの地名のようである。


 その他に見た映画は、



 

・「私が棄てた女(1969年)」(浦山桐郎監督) 3.0点(IMDb 7.0) 日本版DVDで再見
 昔、原作者の遠藤周作に傾倒していた頃に名画座に見に行ったことがあるものの、以来、見直す機会が全くなかったのだが、昨年ようやくDVD化されたため(https://www.youtube.com/watch?v=lql1-cBR-wo&t=5s)、借りて見てみた(正直余り芳しくない評価は当時とほとんど変わらなかった)。

 一旦は自らが癩病と診断された主人公ミツが、誤診だったと知らされてからも、当時偏見の多かった癩病院に残って患者たちに尽くすという原作の設定を大きく変えたことで、彼女が体現するはずの「聖性」が少しも感じられず、どんな相手(のどんなにひどい行為)をも赦してくれるという彼女の(イエスや聖母マリアのような)寛容さも他の登場人物によって語られるに過ぎず、リアリティや説得力が欠如してしまっている。

 アントニオーニの「欲望」(1967年、原題「Blowup」)の劣化版のような結末の妄想(?)シーンは、それまでの内容をすっかり台無しにしかねない程ひとりよがりで拙劣でしかなく、どうしてこんなものを最後に持って来たのか(しかも以下の対談によれば、映画会社側の削除要請を頑として拒んだ結果らしい)、その意図を疑うしかない。

 結局のところ、業界内の評価はそこそこ高かったものの、浦山桐郎という人は今となってみれば「キューポラのある街」(1962年)1本だけの監督だったと言ってしまってもいいのかも知れない(その「キューポラのある街」にしても、今改めて見直してみたら、北朝鮮への帰国事業を美化した罪を除外するとしても、正直どれほどの作品か評価に迷うだけだろう→その後見直してみたのだが、時代を感じさせる陳腐な教条主義的な台詞や場面はところどころにあるものの、十分鑑賞するに値する佳作だと改めて思った)。

 DVD化に際して主人公ミツを演じた小林トシ江と映画監督・原一男との間で対談が行われたそうなので、その内容を紹介するアドレスを以下に貼付しておく(全2回)。

 http://dig-mov.net/pg179.html

 http://dig-mov.net/pg180.html



 

・「ローラ (1960年)」(ジャック・ドゥミ監督) 3.5点(IMDb 7.6) 英国版DVDで再見(ただし途中でDVDが再生できなくなったため、Youtube(その後削除された)で残りを鑑賞。英語字幕付き
 ジャック・ドゥミの長編デビュー作。「男と女」(1966年)や「甘い生活」(1960年)のアヌーク・エーメが初恋相手のアメリカ人船員をいつまでも忘れられない純真なダンサー(兼娼婦?)ローラを、そしてジャック・ベッケルの「穴」(1960年)で主人公を演じたマルク・ミシェルが彼女に片恋慕する青年ロランを演じている。デビュー作だけに作品そのものは荒削りだが、ヌーヴェル・ヴァーグ作品を数多く担当したラウル・クタールがモノクロで美しく映し出す港町ナントの街並み(特にパッサージュ)とともに、ドゥミ生来の感傷が過多にならず程良く生かされた佳作となっている。

・「パリはわれらのもの(1961年)原題:Paris nous appartient」(ジャック・リヴェット監督) 3.0点(IMDb 6.8) 英国版DVDで視聴

 ヌーヴェル・ヴァーグ最初期の作品であり(ただし1958年に撮影されながら1961年まで公開されなかった)、ゴダールやクロード・シャブロル、ジャック・ドゥミなどの「盟友」たちがカメオ出演している珍品でもある。

 主人公アンヌ(ベティ・シュナイダー)が、兄の友人で「魔性の女」テリー(フランソワーズ・プレヴォー)と関係しては結局破滅していく男たちに惹かれ、彼らの謎めいた死(あるいはこれから起こるだろう死)の陰にうごめく「陰謀」の真相を突き止めようとする。この「陰謀」は当時の複雑怪奇な世界情勢の隠喩だと思われるが、今作ではその謎は最後まで解明されることがなく、そもそも本当に陰謀なるものがあったのかどうかも定かではない。

 「ファム・ファタル」テリーの恋人で、その最新の「犠牲者」となる演出家ジェラールを中心に、若い俳優たちがシェイクスピアの「ペリクリーズ」上演に向けて奔走する様は、「彼女たちの舞台(原題:La bande des quatre)」(1989年)など、後のリヴェット作品を髣髴とさせて興味深い。

 

・「カフェ・ソサエティ(2016年)」(ウディ・アレン監督) 4.0点(IMDb 6.6) 日本版DVDで視聴

 上記の点数はやや甘めだが、ウディ・アレンという「永遠に成熟できない少年」がようやく「大人」になったことを示す作品だと言えるかも知れない。「夢は所詮夢なのだ」と口ずさみながら、主人公2人が若き日の自分たちを突き放すように冷徹に眺める場面や、彼らが無言のまま過去を振り返る、しっとり落ち着いて情感に満ちたラスト・シーンは特に秀逸で、名撮影監督ヴィットリオ・ストラーロによる美しい映像も見ものである