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 2019年3月16日(土)
 この間、先月末に開かれた米朝首脳会談について言及することを失念していたが、しかし実際のところ、今の時点で語るべきことはとりたててないと言ってもいい。
 会談を前にして、ロシア・スキャンダルやメキシコ国境の壁設置問題などで反撥を受けている米トランプ大統領が、外交成果を急ぐあまり、アメリカにだけ都合の良い妥協案に合意し、制裁の一部解除や朝鮮戦争の終戦宣言を出すことすらありうるかも知れないといった憶測が飛び交っていたが、いざ蓋をあけてみると事実上の決裂という、おそらく誰にとっても意外な展開だったろう。
 そして中でも今回の結果に最もショックを受けているのは、間違いなく韓国の大統領やその側近たちだろうと思われる。そうでなくとも彼らはこれまで、核廃棄の具体的な動きもないうちから北朝鮮に対する制裁解除や経済支援に前のめりになっていたし、○○大統領は今回の会談で終戦宣言が議論されるなら、(朝鮮戦争の当事者である)韓国が直接関与しなくても良いという、ほとんど国家としてのアイデンティティを放棄したとも言える発言までする始末で(これは当然、野党や保守メディアから激しく批判された)、こうした言動は、「親日派」という「国賊」たちによって作られ維持されてきた「大韓民国」という「あやまてる国家」自体を否定しようという彼らの究極的な目論見を露呈したと言っていいかも知れない。
 決裂に終わった米朝首脳会談についても、制裁解除や経済支援の道筋を失いたくない彼らは、ほとんど滑稽なほど必死にその「成果」を強調しようとしていたが、これなども彼ら(とりわけ○○大統領様)が、如何に冷静に状況を把握する客観的判断の出来ない「裸の王様」になりつつあるかを示していると言えるだろう。
 むろん大統領というポストが絶大な権力を有している韓国においては、大統領の「裸の王様」化はむしろ毎度のお約束とも言えるもので、それだけをもって現政権を「異常」視する根拠にはならないかも知れない。しかし昨今の韓国政府の、ほとんど自暴自棄になっていると思わざるをえないほど、他国の視線や反応を無視するような感情的で矛盾に満ちた言動を目にしていると、「裸の王様」化の度合いは、これまでの政権と比べても甚だしく際立っていると言うことが出来るだろう。

 何を言っても「唯我独尊」路線を崩さない韓国○○政府のことはこれくらいにして日本に視線を転ずるなら、この11日は、2011年に起きた東日本大震災から丸8年となる日だった。地震や津波による被害を受けた各地では人々の地道で懸命な努力で復興が進んでいるものの、一方で未曾有の原発事故に見舞われた福島第一原発では今も廃炉にむけた手探りの作業が続き、今後の見通しが立たないままである。8年という歳月はその意味では長くもあり、同時に短くもあったと言え、この間に行われて来た無数の市井の人々の営為が、今後の被災地のさらなる復興や震災前以上の発展に着実に結びついていくことを心から願わずにはいられない。

 続いて個人的なことを書くなら、先日、叔父のひとりが亡くなった。
 10年ほど前叔母に先立たれた上、自身も難病にかかって日常生活にも支障をきたすようになっていたが、晩年は仕事の関係で地方に移住した長男一家と同居するようになり、その後衰弱が進んで施設に入らざるをえなくなりはしたものの、最期は家族に見守られて静かに逝ったようである。叔父の家はもともと私の実家から比較的近くにあったことから、近年ほとんど親戚づきあいをしていない私も、韓国に来る前にこの叔父にだけは何度か会う機会があったのだが、会う度に衰弱していく姿を目にするのは辛かったものの、その飄々とした飾り気のない立ち居振る舞いには親近感を覚えたものである。
 実は昔はこの叔父のことをかなりの変人だと思ってもいたのだが、晩年の姿に接していたら、ひょっとしたらこの人は、そうでなくても気難しく変人揃いのわが一家(むろん私自身もその一人なのだが)のなかでも、実際のところはかなりまともな方(ほう)だったのではないかとさえ思った程である。
 上記の通り最期は私の実家から程遠い地方都市で亡くなった上、私自身なかなか韓国を簡単に離れられない諸般の事情もあり、今般の訃報に際しても葬儀に行くこともかなわず、甚だ不義理を働くだけなのだが、ここにその思い出を記し、心からその死を悼みたいと思う(先に亡くなった叔母は海に骨を散骨したため墓がないのだが、もし叔父が墓に入ることになるなら、いつか墓参りをしたいとも思っている)。



 さらにもうひとつ個人的なことを書くなら、昨年末から不便を感じていた手の不調だが、ようやく先月の終わりに日帰りの簡単な手術を受けて不便を一応は解決することが出来た(まだ傷跡の不快感や痛みは残っている)。
 手の不調を覚えた当初、まず近場にある病院を探して診察を受けに赴いたものの、根本的治療に必要な設備と担当医がいないらしく、より大きな病院で診てもらうように言われて紹介状を書いてもらったのだが、いざインターネットで自宅に比較的近い大病院を調べて予約を取ろうとすると、最速でも半年後になるという耳を疑うようなことを言われ、もし他の病院も似たり寄ったりだとすれば、一度日本に帰国して治療を受ける必要があるかも知れないと覚悟した程だった。
 そこで手の具体的症状も検索語に追加してインターネットで調べまくった結果、自宅から1時間ほどかかるソウル市内の某総合病院の名前を見つけ、早速予約を取るべく連絡してみると、その病院であれば2週間後に予約可能だということが判明した。結局それからも、初診→(初診とは別の日に)検査→(また別の日に)検査結果と医師の所見→手術の判断と事前検査→手術→術後の消毒(ただしこれは地元の病院でやってもらえた)→組織検査の結果&抜糸という過程に合計2ヶ月近い時間を要することになったのだが、ようやく先週になって大過なく「放免」の身となった。

 細かいことはいちいち記さないが(と言いつつ、結局やたらと長くなってしまったが)、今回初めて韓国の大きな病院にかかってみて、実によく整備されたその医療体制には素直に感心させられた。長時間、診察の順番をおとなしく黙って待ってなどいられない韓国人の短気な性格が大きいのかも知れないが、待ち時間をできるだけ少なくするように、診断前に補助医による事前相談を設けたり各医師に助手医がついて診断前の準備をするなど、担当の医師が診断に専念できる態勢をととのえ、良い意味で細かい点に至るまでにシステム化が進んでいる印象を受けた。
 中にはまるで飛行機の旅のように、何種類もの飲み物をのせたカートを押して専用の職員が各科を巡回していく無料飲料サービスなどという、私には行き過ぎとしか思えないサービスもあるものの(当然こうした費用も加算されて医療費に反映されているに違いない)、全体的に見れば患者側にできるだけ負担やストレスを与えない工夫がこらされており、日本の病院が見習うべき点も少なくないだろう(もっとも私が最後に日本の病院にかかったのは10年以上前のことであり、今では日本の病院のサービスも多少は改善されているのかも知れないが)。
 単に存在を知らなかったため私自身は利用しなかったが、この病院には英語や日本語などの通訳サービスも設けられているそうで、海外から韓国に「医療観光」に訪れる人が多いことも十分にうなずける、万全の受け入れ体制が整っていると言っていい。病気になったことは決して歓迎すべきことではないものの、今回このような韓国の医療システムを間近に見られたことだけでも良い勉強になったと言っていい。

 ただあえて難点をあげるとすれば、すべてのプロセスがシステマチックに均一化されているため、私のような比較的軽度で簡単な手術を受けるにも、いちいち手術着に着替え(手のひらだけの手術にもかかわらず、上下の下着まですべて脱いだ上で手術着に着替えるよう指示された。さすがに私はパンツまでは脱がなかったが……)、ベルトコンベアに載せられるように、受付→血圧や体重・身長のセルフ測定(これはやり方がよく分からない上、たまたま血圧計が壊れていたこともあって、しばらく迷ってひとりでウロウロしてしまった)→脱衣所で着替え→事前相談(注意点の説明など)→待合室で待機→点滴室へ移動して点滴を受ける→手術室へ向かって手術→回復室へと運ばれて落ち着くまで待機し、薬の処方と術後の注意点の説明を受けて会計、までと、すべてが整然と管理されている半面で、私のような場合には無駄な部分も少なくないのではないかと思ってしまった。

 また、これは家族で行動することの多い韓国らしい点かも知れないが、「待合室」は患者の何倍もの人数の「保護者」たちで溢れかえっており、手術に呼ばれるのを待つ私には座る場所がなく、ずっと立ちっぱなしのままでいるしかなかった(全身手術着姿で、頭にも手術用のキャップをかぶっているので、ひと目でこれから手術を受けに行くことは明らかだったはずだが、誰ひとり席を譲ってはくれなかった。やはり日本とは違い、何事も自分から「主張」しないと駄目なようである)。
 また、私のように「保護者」を連れて来ず一人で手術を受ける場合には、脱衣所の鍵すら手術室には持ち込めないようになっていて、病院側に預かってもらうしかないことも戸惑った点のひとつだった(鍵だけでなく眼鏡など余計なものは一切持ち込んではいけないことになっていて、廊下を歩くにも周囲がよく見えず困った)。

 今回私の利用した病院は、最寄りの地下鉄駅からかなり幅のある川(と堤防)を越えた場所にあり、川にかかる橋はこの病院専用と言っても良いのだが、高さのかなりあるその橋は幅も高さもなんとも頼りない代物で、そうでなくても季節は真冬で、橋の上から下を見下ろすと川面は凍りつき、川べりにも枯れた雑草が繁茂するだけの実に殺風景な見晴らしで、もしも病院で難治の病など宣告されでもしたら、思わず帰りにそのまま川に飛び込んでしまいたくなるようなものなのである。
 そのせいもあってか(?)、病院では地下鉄駅までの送迎シャトルバスを用意していて、約10分ごとに駅と病院の間を行き来しているのだが、自動車が通れるような橋はそこからかなり離れた場所にあるようで、駅から病院までどれくらい時間がかかるのか不明なことから(徒歩であれば10分もかからない)、結局私は一度も利用することはなかった。
 おまけにこの川を越えて病院に向かうには、さほど高い訳ではないものの、かなり急な階段を降りていかねばならず、老人や子供などがつい足を踏み外して怪我をしたりしないか心配になるほどだった。病院側としてはわざわざシャトルバスを用意しているのだから、そちらを使って欲しいということなのかも知れないが、せっかく設備面でもサービス面でも優れた医療機関なのだから、もう少しまともな橋(少なくとも簡単に飛び降りられないような)をかけ(あるいはかけるように行政に働きかけ)、病院に向かう階段にも別途スロープを用意するなどの配慮があればもっと良かったのにと思ったものである(あるいは私が病院に期待し過ぎているだけなのかも知れないが)。

 最後に、私は今回の治療を受けた際、医師の指示でX線検査と超音波検査を受けさせられたのだが、X線検査が医療保険の対象だったのに対し、なぜか超音波検査は保険適用外で、25,000円近く自己負担させられた(一方、その後受けた手術は、日帰りで実質20分ほどの比較的簡単なものだったとは言え、ほとんど保険でカヴァーされていることから15,000円程度しかかからなかった)。
 後で調べたところ、韓国と日本の医療制度には様々な違いがあり、特に韓国では保険適用となる医療行為と適用外の医療行為とを併用して行う「混合診療」(あるいは選択診療)という仕組みになっているらしいのだが、上記の超音波検査を受けるに際しても、事前に医師や看護師から保険対象外であるという説明は一切されなかった(一方、日本では医療保険が適用になっても検査費用が高額の場合には事前に説明を受けた記憶がある)。
 保険適用の有無に疑問を覚えた私は、会計の際に思い切って下手くそな韓国語でその理由を尋ねてみたのだが、「国が認めていないから」というつれない返事が帰ってきただけで、それ以上取り付く島もないという雰囲気で、どうせ高いと分かっていても検査は受けるしかなかったのだからと諦めることにした次第である(むしろその後の手術費用がどれくらいになるかが心配だったが、結果的には上記のように検査費用より遙かに安く済んだ次第である)。MRIなど高度(?)な検査ならまだしも、超音波検査くらいなら医療保険でカヴァーして欲しいと思うのだが、こればかりはそれぞれの「お国」が決めることなのでどうしようもない。



 

 さて、ようやく本題である。

 以前このブログでも採り上げたが(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502041995.html)、選考団体である「スウェーデン・アカデミー」関係者の不祥事によって、昨年のノーベル文学賞は発表が見送りとなり、同団体の改革をはかる具体的内容やその進捗次第では、再開すら危ぶまれると言われていた。
 しかし今月になって「ノーベル財団」は、今秋からノーベル文学賞の発表を再開することを明らかにし、本年度の受賞者に加え、昨年度の受賞者もあわせて発表する意向を表明したとのことである。
 上記の「関係者」から事前に受賞者情報が外部に漏れるなどして(当然お金の動きもあったはずである)同賞に対する信頼が大いに失墜したことに加え、それまでは小説家や詩人などの文学者や哲学者に対象が限られていたノーベル文学賞が、2016年に音楽家のボブ・ディランに授与されたこと、また、一昨年の2017年の受賞者も過去と比べるとかなりエンターテインメント寄りのカズオ・イシグロだったことなど、ノーベル文学賞の「権威」はこの数年でかなり低下したと言うことも出来る。
 これまで私はこの賞にそれなりに関心を抱き、毎年発表を楽しみにしてもいたのだが、今回の一連のスキャンダルや近年の受賞者を見ていると、所詮はこの賞が極めて閉鎖的で少数の人間が「密室」内で選出する、無数の文学賞のうちの単なるひとつの賞=SHOWなのだという意識を強く持つようになり、正直今後の受賞者が誰であろうとどうでも良いという気になりつつある。
 それでもあえて今後の受賞者を個人的な希望もこめて勝手に推測してみるなら、
 ①ミラン・クンデラ(フランス&チェコ)
 ②コーマック・マッカーシー(アメリカ)
 ③ファン・ソギョン(黄晳暎)あるいはイ・ムニョル(李文烈) いずれも韓国
 また、以下は作品を読んだことがない作家たちだが、
 ④マーガレット・アトウッド(カナダ)
 ⑤トマス・ピンチョン(アメリカ)
 ⑥ドン・デリーロ(アメリカ)
 ⑦閻連科(中国)
 ⑧イスマイル・カダレ(アルバニア)
 あたりになるだろうか(ただし実際に受賞する蓋然性は、おそらくいずれも決して高くないようにも感ずる)。
 数年前から日本で大いに受賞が期待されているM・ハルキ氏は、個人的に決して嫌いな作家ではないものの(大江健三郎が事実上引退してしまった今、現役の日本人作家では私が唯一関心を持っている作家でもある)、人類に貢献云々というノーベル賞の性格からして、おそらく実際に受賞することはないだろう。

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 この間に読んだ本は、

・ロアルド・ダール「Matilda」(1988年) Puffin Books版
 ずっと前に俳優でもあるダニー・デヴィートが監督した映画版を見た記憶があるのだが、内容はすっかり忘れていた作品である。英国式ブラック・ユーモアの独擅場と言っていい露悪的な描写も多く、また主人公が超能力を発揮するところなどは思わず笑ってしまうような設定も多いのだが、金儲けや自分たちの利益しか考えない独善的な人間たちと、彼らに虐げられながらも純粋さを保って生きている人間たちとの対比を、主人公マチルダとその教師ミス・ハニーと、トランチブル校長という独裁者という3人の登場人物を通して描いた作品である。「悪役」であるトランチブル校長の暴虐ぶりは昨今ではとてもありえないような凄まじさではあるのだが、しかし今も頻繁に起きているいじめ問題や子供の虐待事件などを見れば、必ずしも過度に誇張された戯画だとも言い切れないかも知れない。
 以前ダールの「Fantastic Mr Fox」について触れた際に書き忘れてしまったのだが、ダール作品の多くで挿話を担当しているクェンティン・ブレイクの絵も、決して「うまい」絵ではないものの独特の味わいがあり、ダールの作品世界にぴったり合っていて秀逸である。
 ダール作品を英語で読む試みだが、次は児童文学作品ではなく、自伝的な「少年(Boy-Tales of Childhood)」とその続編「単独飛行(Going Solo)」を読むつもりである。

 この間に見た映画は、

・「ハッド(1963年)」(マーティン・リット監督) 3.5点(IMDb 6.6)Amazon Prime Videoで視聴
 内容的に「エデンの東」(1955)や「普通の人々」(1980)に実によく似た作品だが、「エデンの東」とは違って葛藤を抱えるのは父と息子であり、父親が溺愛していた才能ある兄の死によって父子(弟の方)の仲が悪くなる点など、むしろ後の「普通の人々」に多くの共通点を見出すことが出来るかも知れない(もっとも「普通の人々」の内容はほとんど忘れてしまっているのだが)。
 主演のポール・ニューマンは、自分を嫌う父親に対して無理に悪者ぶってみせる主人公をいささか大げさに演じているが、むしろより存在感のあるのは女中役のパトリシア・ニール(偶然にも上記のロアルド・ダールの元奥さんだった人で、今作でアカデミー賞主演女優賞を受賞)や、父親役のメルヴィン・ダグラス(同助演男優賞受賞)、そして名作「シェーン」(1953)で少年役を演じていたブランドン・デ・ワイルドが純真な少年が大人になっていく過程を繊細に演じていてとても良い(残念ながら若くして亡くなったことが惜しまれてならない)。
 やはり今作でアカデミー賞撮影賞を受賞したジェームズ・ウォン・ハウのしっとりと美しい映像も素晴らしく、内容自体がひどく地味で(なにせ作中で最も重要な事件は畜牛の口蹄疫である)一般的に広く知られているとは言い難いものの、一見の価値がある佳作だと言っていい。また映画そのものの出来とは直接関係ないものの、口蹄疫にかかった牛を殺処分する場面(直接牛が死ぬ場面は出てこない)は、作り物だとは分かっていても見ていて痛ましく、今も韓国や日本で口蹄疫や豚コレラで多くの家畜が殺処分になっているニュースとダブってしまい、いたたまれなかった。

・「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法(2017年)」(ショーン・ベイカー監督) 1.5点(IMDb 7.6) 日本版DVDで視聴
 まず題名の「プロジェクト」の意味は、某映画批評家の発言を読んだ初めて分かったのだが(米国における貧困層向けの居住区のことらしい)、それ以外にも、舞台となるモーテル近くにあるらしいディズニー・ワールドの仕組みを知っていないと、作中に出てくるマジックバンドなるものがなぜひとつ何百ドルもするのかよく分からない。
 これはどこまで本当なのか不明だが、今作は映画が作られる10年ほど前に起きたサブプライム・ローン危機によって貧困に追いやられた人々を描いているという説明を見かけるのだが、映画だけを見ているかぎり、登場人物たちが貧困層であることは分かるものの、それがサブプライム・ローンがらみだということは全く知りえない。
 そうした背景はともあれ、今作で描き出される登場人物たち(ウィレム・デフォーを除く)たちのダメさ加減には終始イライラさせられるしかなく、個人的には彼らに感情移入することが全く出来ないまま見終えただけだった。特に主人公の母親の行動は、彼女の置かれている状況が仮に「100%誰かのせい」だと仮定しても決して正当化されるようなものとは思えず、ただ自分勝手で放埒に生きているだけだという印象しか持ちえなかった。むろん貧困そのものは罪などではないし、その責任の一端を「誰か」が担っていることもありうるだろうが、しかしそのことは彼らが無秩序かつ投げやりに生きることを正当化はしないし、何もかもを他人のせいにして娘を放置して好き勝手に行動させることに対して、母親は全的に責任を負っているというしかない。なによりも本当に貧困にあえいでいる人間からしてみれば、今作で描かれているような貧困の描写はむしろ失笑ものだとさえ言えるのではないだろうか。
 その意味でも今作が高く評価されている理由を私は全く理解できないし、結末のディズニー・ワールドの描写にしても、私にはただ無意味で情緒的なものとしか思えなかった。唯一評価できる点は、子役をはじめとする俳優たちが、登場人物の自堕落さや憎らしさの表現において極めて巧みだったということで、そのことに対して上記の点数を献上したいと思う。

・「グッバイ・ゴダール!(2017年)原題;Le Redoutable」(ミシェル・アザナヴィシウス監督) 3.0点(IMDb 6.7) 日本版DVDで視聴
 女優兼小説家で、ノーベル賞作家フランソワ・モーリヤックの孫でもあったアンヌ・ヴィアゼムスキーが、元夫のジャン・リュック・ゴダールとの日々を描いた小説「それからの彼女」(原題;Un an après)を映画化した作品。
 どこまで事実に即しているかどうか不明なものの、主人公アンヌ(ステイシー・マーティン)の視点を通して、ゴダール(ルイ・ガレル)との出会いから決別までを、1968年の5月革命を始めとする当時の世相を交えつつ描いており、過去の自作を含む既成の映画を否定し、過激なまでに政治的な言論活動と映画製作へと突き進んでいたこの時期のゴダールは誰に対しても偽悪的かつ挑発的で、周囲の人間を悉く否定・批判してはどんどん孤立していき、最後には20歳近く年下の妻アンヌにも引導を渡されてしまうだけである。
 実際こんな人物が近くにいたら全く耐え難いだろう「ひねくれ」具合で、まさに今作のゴダールこそは「Redoutable」(恐るべきもの)と言っていい造型なのだが、個人的なことを言えば、そうした姿にどこか私自身にも似た部分があると認めざるをえないのもまた確かなのである。
 それはともかく、過去の自作を否定し去ったゴダールは商業映画と決別し、ジガ・ヴェルトフ集団なる映画製作チームのもとで極めて政治的な映画を撮り続けていくのだが、今作でも描かれる超民主主義的(?)な製作方法にもやがて行き詰まってしまう。そして再び「商業映画」と「称する」作品を撮り始めることになるものの、今作で何人かの人物が口にする「films marrants」(面白い映画、字幕では「娯楽映画」)はもはや二度と作られることはないのである。
 全編にわたって毒舌で性格のいじけたゴダール像が提示されるため、とにかく見ているだけで陰々滅々とした気分にさせられるのだが、唯一笑えたのはカンヌ映画祭が中止となり、そのことにそれぞれ複雑な思いを抱く登場人物たちが、パリへと戻る狭い車中で激しく口論しあう場面である。
 美青年のイメージが強いルイ・ガレルが、頭の禿げた中年男ゴダールそっくりに髪型や話し方まで変えて演じているのも圧巻だが、粘着質で口ごもるようなその話し方は実に気持ち悪く、今作で描かれる偏屈者ゴダールを見事に体現していると言っていい(繰り返しておくが、そうしたゴダール像がどこまで現実に即しているかどうかは分からない)。
 後半で映画監督のベルナルド・ベルトルッチらとともにローマで公開討論に参加する場面が描かれているのだが、過去の自作を「クソ映画」と断罪して完全否定するゴダールに対し、ベルトルッチを始めとする討論相手や観衆たちが、「気狂いピエロ」や「軽蔑」、「勝手にしやがれ」といったゴダールの代表作を懸命に擁護しようとする様は、なぜか感動的でさえある(おそらく私自身が彼らと同じく彼の過去の作品を擁護したいからだろう)。
 以前もこのブログでゴダールの未見作品の感想をまとめて書いたことがあるが(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502041536.html)、私がゴダールの作品で「なんとか見られる」と思えたのは1967年の「ウィークエンド」までで、むしろ本人の評価とは裏腹に1968年以降のゴダール作品は、悉く私にとって「クソ映画」だと言っていい。

・「裁きは終りぬ(1950年)」(アンドレ・カイヤット監督) 1.5点(IMDb 7.1) 日本版DVDで視聴
 傑作「ラインの仮橋(1960)」や「眼には眼を(1957)」のアンドレ・カイヤットによる法廷劇だというので大いに期待して見たのだが、意外にも感情的に陪審制度の問題点や限界を声高に叫ぶだけの凡作でしかなかった。そもそも被告の是非を判断するのに十分なだけの情報が与えられず、また徹底的に議論がなされることもないまま、ただ通り一遍な陳述を断片的に示すだけで、一気に陪審員による評決を経て刑の確定へと至ってしまい、後はただ「悲劇のヒロイン」の横顔が示され、まるで「神の独白」のような大仰で情緒的な陪審制度への「疑問の声」が最後に朗々と発せられるという偏った作りになっている。こんな頭でっかちでプロットや演出もお粗末極まりない作品がヴェネツィアで最高賞を取れたのだから、当時はまだ牧歌的な時代だったのだろうと思うしかないような作品である。
 ちなみに同じ陪審制度を扱ったシドニー・ルメットの「十二人の怒れる男」が公開されたのは、今作から7年後のことである(ドラマ版はそれ以前の1954年に公開されているようだが)。

・「仁義なき戦い(1973年)」(深作欣二監督) 3.5点(IMDb 7.5) テレビ放送を録画したものを視聴
 実際の事件に基づいていることもあるだろうが、終盤までは作りのかなり粗っぽい典型的なヤクザ映画だと思ってみていたのだが、今作では前景にしゃしゃり出るのではなく舞台の後ろに静かに控えていた印象の強い菅原文太が、最後の最後で鬼気迫る存在感で作品を引き締めており、次作への期待が高まる1作目となっている。梅宮辰夫、松方弘樹、渡瀬恒彦、内田朝雄、金子信雄、川地民夫、三上真一郎、伊吹吾郎、田中邦衛、川谷拓三、志賀勝などなど、今からすれば豪華極まりない布陣なのだが、主人公級とも思える俳優たちがあっさり早々に退場していくのも実際の事件に基づくためとは言え、なんとも贅沢な俳優の使い方である。その中でも圧巻なのは、やはり菅原文太と金子信雄だろう。

・「天然コケッコー(2007年)」(山下敦弘監督) 2.0点(IMDb 7.4) 韓国のケーブルテレビで視聴
 原作(漫画)の制約もあるのだろうが、地方都市の描写や東京との対比、中学生女子の造型、撮影(自然の描写や最後の教室内から校庭へとカメラが移動していく場面)などなど、あらゆる面において山下敦弘監督作とは思えないほど類型的で、何度となく途中で見るのをやめたくなった。佐藤浩市と大内まりの関係などを掘り下げていればもっと面白くなりえたと思うのだが、これでは単に通俗的で凡庸な青春モノでしかない。前年の傑作「松ヶ根乱射事件」と比較するとその後退ぶりには驚かされる程である。
 ヒロインを演じている夏帆という女優は悪くないが、しかしその役柄自体が余りにありきたりで、(原作者は女性らしいが)男の妄想そのものと言っていい紋切り型「美(?)少女」でしかない(そもそも彼らに中学生を演じさせること自体、年齢的に甚だ無理がある)。そして誰かも書いていたのだが、今作の絵に描いたような「地方」像は、余りに地方というものをバカにし過ぎでてはいないだろうか?

・「寝ても覚めても(2018年)」(濱口竜介監督) 3.0点(IMDb 6.6) インターネットで視聴
 カンヌ映画祭に出品され、世評もそこそこ高い作品だが、私のような中年オヤジは、この種の惚れた腫れたというような内容にはもはやほとんどついていけず、全く興味を覚えられなかった。
 そうでなくても偶然の多すぎる展開には違和感しか覚えず、また東日本大地震を絡める点にも何の説得力も感じられず安易過ぎるとしか思えない。主演の男女2人の演技もお粗末なもので、特に彼らの話す不自然な大阪弁には終始イライラさせられた(それに対して伊藤沙莉という女優の大阪弁は驚くほど自然に感じられた)。
 今作の長所は、猫が可愛かったのと、tofubeatsというグループの音楽が決して悪くなかったことに尽きると言っていい。

・「万引き家族(2018年)」(是枝裕和監督) 3.5点(IMDb 8.1) インターネットで再見
 ようやく再見する機会が訪れたのだが、やはり鑑賞する環境というのは大事で、初見時は音声が聞こえづらく座席の座り心地も悪かったせいか正直今作の良さが全くと言っていいほど理解できなかった。今回イヤフォンで音声をよく聴きながら、寛いだ格好で鑑賞してみて、ようやく作品自体をじっくり賞味することが出来たと言える。
 初見時に書いたブログ(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502042239.html)で是枝作品の中では「誰も知らない」が最高傑作だとした評価は今回「万引き家族」を再見した後も揺るぎはしないのだが、しかし今作そのものに対する評価はかなり上がった。上記の評価は0.5点刻みなので3.5点としたが(←四捨五入で切り上げることはせず、4点に達しないものは3.5点としてある)、実際は4点にかなり近い3.5点である。
 これは「そして父になる」と対をなす作品であり、家族とは何かという問いは「誰も知らない」以降の是枝作品において一貫して重要なテーマとして採り上げられている。「血」と同じくらい「水」も重要であるとする「そして父になる」とは対照的に、今作は一見、「やはり子供には本当の親が必要なのだ」と言っているようにも思えるが(この「本当の」という形容は微妙であり、単に「血」の問題でないことは言うまでもない)、しかし同時に「利得」によって結ばれた「かりそめ」で「偽物」の家族にも、ひょっとしたら実の親子以上の「絆」や「愛情」がありうるのかも知れないと思わせる点において、今作はひとつの結論を提示することをあえて拒否しているとも言える。そしてその点で今作はより普遍的かつ大きな広がりを持った作品たりえていると言えるかも知れない。
 前回極めて否定的に書いた細野晴臣の音楽も、今回は不思議とさほど気にせずに見る(聞く)ことが出来た。

 最後に、今作に対して日本の汚点を描いただの反日だのと言って批判する向きがあるようなのだが、今作は単なるフィクションであって、この種の批判は極めて単視眼的でお門違いでしかなく、また仮にこの中で現実の日本社会の暗部が描かれているとしても、それは社会の一端を描き取るという映画や芸術のひとつの(すべてではない)役割でもあると言っていい。一体いつからこの国は、映画や小説においても「お花畑」的な理想像を描き出さなければ批判を受けるような偏狭で独りよがりな社会になってしまったのだろうか。

 以下はなんとなく見返してみたもの。
・「ギャラクシー・クエスト(1999年)」(ディーン・パリソット監督) 4.0点(IMDb 7.3) 日本版DVDで再見
 実にくだらないSF作品のパロディなのだが、何度見直してもつくづく痛快な傑作だと思うしかない。シガニー・ウィーバーやアラン・リックマンといったシリアスな俳優が出ているものの、作品的にはとことんゆるく、しかし伏線の回収なども巧みで、特別SFオタクでもなんでもない人間でも十分に楽しめる娯楽作に仕上がっている。加えてなにげないところに真面目なメッセージが込められていたり(Never give up, never surrender!)、思わずホロリとさせられる場面もあり、世間的には日陰者であるオタクをヒーローとして描いている点も面白い。宇宙人役を演ずるトニー・シャルーブ以下の俳優たちの奇妙な動き方や話し方なども抱腹もので、とにかく理屈抜きで楽しめる作品となっている。

・「豚と軍艦(1961年)」(今村昌平監督) 4.0点(IMDb 7.6) 日本版DVDで再見
 NY滞在時にリンカーン・センターの(確か)Walter Reade Theaterで初めて見て圧倒されて以来、ほとんど偏愛して何度となく見返してきた作品だが、今回は多少その余りに戯画(あるいは漫画)的な描き方に違和感を覚えつつ、それでも最後にはやはり容易には得難い爽快感を覚えつつ見終えることが出来た。

 何と言っても今作がデビュー作である吉村実子のみずみずしい演技が際立っており、それに加えて大坂志郎や加藤武、東野英治郎、丹波哲郎などの老練たる男優たちや、南田洋子や菅井きん、中原早苗、武智豊子といった個性的な女優陣も決して負けてはいない(むしろ吉村実子や南田洋子は男優陣を完全に喰ってしまっている)。
 冒頭の長回しや俯瞰ショットの数々など、姫田真佐久の撮影も素晴らしく、また「幕末太陽傳」と同じ黛敏郎の音楽もあいまって、師匠・川島雄三へのオマージュと思しきカットも散見されて楽しい。
 当時の(そして今も十分に有効な)アメリカの「支配下」にある日本(人)の生き様を自嘲と皮肉をこめつつ描きながらも、そうした世の流れに完全と抗って自らの道を行く吉村実子の毅然たる姿によって一筋の「希望」も込められており、政治的でありながら何よりもエンターテイニングな傑作たりえている。

 以下はテレビ番組だが、

・アナザーストーリーズ「犬神家の一族~エンターテインメントの革命児たち~」(2月26日放送) インターネットで視聴
 角川映画第1弾となる市川崑「犬神家の一族」(1976年)の製作秘話を、角川春樹など当時の関係者の証言をもとに追ったドキュメンタリーで、市川崑作品で長らく編集を担当した長田千鶴子らの証言も紹介されていて、この映画を同時代に見て惹かれた私のような人間にとっては実に面白い内容だった。

・「クライマーズ・ハイ(2005年)」 3.5点(IMDb 7.7) インターネットで視聴
 前から横山秀夫による原作を英国の知人から勧められていたのだが、とりあえずドラマ版を見てみることにした(脚本:大森寿美男、演出:清水一彦、井上剛)。
 地元群馬で起きた日航123便墜落事故をめぐって、作者が勤務していた上毛新聞社をモデルとする「北関東新聞社」内における、世代や職場の違いによる葛藤や軋轢、被害者や読者との関係などをドラマチックに描き出している。主役の日航事件の全権デスク役を演ずる佐藤浩市や彼の上司にあたる編集局幹部(大和田伸也、岸部一徳、塩見三省)や同僚(岡本信人、松重豊、光石研)、部下たち(大森南朋、新井浩文)にも個性的な俳優が揃っていて飽きさせない。杉浦直樹演ずる新聞社の社長役はいささか過度に戯画化されているきらいがなくもないが、独裁者社長の個人的な意向や、俗っぽい社内の派閥抗争などが、空前絶後と言える大事件の報道をも左右してしまう新聞業界の情けない実態が描き出されていて痛快である。
 石原さとみ演ずる、後に記者を目指すことになる若き女性の書いた、日航事件の犠牲者だけを重視して悲劇的に報道しようとする新聞社の姿勢に疑問を投げかけた投書(とその掲載)が実際にあったことなのかが気になるが(おそらくフィクションだろうと思われるが)、頭でっかちの彼女をも「動かす」ことになる、犠牲者が亡くなる前に記した(実際のものだろう)家族宛ての遺書には、私自身もまた胸を熱くせざるをえなかった。