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 2016年1月23日(土)
 これといった理由もなく、年明けからジャン・リュック・ゴダール監督の未見作品をまとめて見てみた(これは次回以降触れることになるだろうが、ゴダールに続いてミケランジェロ・アントニオーニの未見作品を見ているところである)。
  
 ゴダールと言えば、あえて説明するまでもなく、フランソワ・トリュフォーやジャック・リヴェット、クロード・シャブロル、エリック・ロメールなどとともにフランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」(新しい波)の中心的存在であり(★)、80歳を越えたいまも作品を発表し続けている現役の映画作家である。
 ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちの多くは、アンドレ・バザン率いる映画批評雑誌「カイエ・デュ・シネマ」から出発したこともあって、極めて理論的・観念的な映画観を持ち、当時フランスではさほど評価されていなかったヒッチコックやハワード・ホークスなどのアメリカ映画に早くから注目し、後にゴダールの映画に出演することになるフリッツ・ラングやサミュエル・フラー、あるいは(こちらは後にドイツのヴィム・ヴェンダース作品に出演することになる)ニコラス・レイなど、マニア好みの映画作家たちを支持していた。
《★ルイ・マルやアラン・レネ、ジャック・ロジエ、ジャック・ドゥミやアニエス・ヴァルダなどまでこの派に含める見方もあるようである。(後日追記)この記事の数日後でジャック・リヴェットの死が報じられた。享年87歳。》



 ヌーヴェル・ヴァーグの初期作品においては即興演出やロケ撮影を中心とした映画作りといった共通点こそあったものの、かつて自分たちが激しく攻撃した伝統的なフランス映画の方向に徐々に回帰していき、エンターテインメント色を強くしていったトリュフォーやシャブロル、哲学的(?)で知的な会話によって男女間の恋愛模様を軽妙に描き続けたロメールなどに対して、ゴダールは年を追うごとに「物語」から遠ざかり、自身の政治思想や同時代への諷刺・批判を強く盛り込んだ尖鋭的な映画作り(あるいは映画破壊)をしていくことになる。
 観客にまったく迎合せず独自の映画観を過激なまでに追及し続けていくゴダールには、彼の作るものであれば何でも賞賛しありがたがる狂信的な「信者」たちが存在しており、他のヌーヴェル・ヴァーグの作家たちが亡くなったり映画界の最前線を退いたりするなか、今も映画を撮り続けていることもあり、「ゴダール教」の信者たちは未だに世界中に(細々ながら)生き延びており、晦渋な批評言語や映画製作用語を駆使しながら「布教・啓蒙活動」を行っている。言わばゴダールという名前は一映画作家を意味するのではなく、「ジャン・リュック・ゴダール」というひとつの映画ジャンルになったと言っても過言ではなく、神が無謬である如く、「ゴダール教」の教祖として無謬かつ唯一無二の存在なのである。

 もっとも私自身はゴダール教の信者などではまったくなく、ゴダール作品や晦渋極まりない映画批評(特に蓮實重彦や、彼を「教祖」と崇めて、やたらと映画作品の細部や技術に注目し、大仰で持ってまわった言い回しを用いて批評活動を行っている蓮實エピゴーネンたち)はむしろ敬遠し続けてきたし、どんな思想であれ人物であれ、対象を神聖視し崇めたてまつるような傾向には反撥を覚えるしかない。しかし同時に一映画愛好者として、「初期」のゴダール作品に優れた映画作品が幾つも存在することを認めるにやぶさかではない(★★)。

《★★具体的には、「勝手にしやがれ」、「女は女である」、「女と男のいる舗道」、「軽蔑」、「気狂いピエロ」など。》


 しかしそのキャリア初期において傑作・佳作を撮り続けていたゴダールも、ある時期(具体的には1967年)以降、上記の通り徹底的に「物語」を排除して、文学作品や哲学・思想書などからの膨大な引用に、過去の映画作品やニュース映像からのモンタージュ、極めて詩的・哲学的・政治的な台詞づかい、最新の撮影技術を駆使した見た目にも美しい映像に、クラシック音楽を中心とした(往々にして)叙情的で大仰極まりない音楽といった共通した特徴を持つ、政治的・思想的メッセージ色の濃厚な作品を撮るようになっていくのである。
 下の「万事快調」の写真に見られるような色付きの文字を画面に表示する手法は、初期作品においてはその視覚的な効果によって、時として滑稽さをもたらしもする一種のアクセントとしても機能していたのだが、時代を追うごとに色なしの(普通の白い)活字に取ってかわり、単にメッセージ伝達の一手段と化し、もっぱら書物からの引用やスローガンを提示するために用いられることになる(同時に作品からはユーモアも失われ、糞真面目で硬直的な様相を呈していくことになる)。


 しかもしばしばこの文字による引用やメッセージと(複数の)声による台詞が同時にかぶさり合い、観客はただでさえ瞬時には理解しがたい政治的・哲学的なメッセージや詩的な文章を、視覚・聴覚の両方で受容することを迫られ、それら膨大な情報量の言語や映像、音の氾濫に置き去りにされることになる(特に今回私はほとんどの作品を英国版DVDで見たために英語字幕を追うだけで非常に苦労して、到底理解するところまでは行き着けなかった。もっとも日本語字幕で見た「ゴダールの決別」も到底理解できたなどとは言えないのだが)。言い換えれば、観客の理解を求めるためにメッセージを提示するというよりも、むしろ観客を混乱に導くためにあえて膨大な情報を視覚・聴覚に投げかけているのだと言ってもいいのかも知れない。


 従って観客はDVDなどで繰り返し台詞や画面に表示される文字をたどり直し、台詞を聞き返し、映像を見直すことをしないかぎり、到底「理解」に至ることはない(はずである)。いや、たとえそうしてみたところで、それらの引用や映像、音楽には相互の関連などほとんどなく、ただの混沌・混乱でしかないという可能性も否定しえず、一定の理解に至ることなど端からありえないのかも知れない。
 だから上記のゴダール教信者たちの映画評を読んでも、そこには「理解」したことが語られているのではなく、非常に些末な細部をめぐる技術的な話や映像の美しさ、往々にして凡庸なメッセージ(権力の否定や戦争反対など)への共感などが語られ、美しいとか格好いいといった漠然とした印象が語られていることが多く(中には音声を消して無音にし、映像にだけ身をゆだねると良いと勧めている人もいるほどである)、要するに作品に対する理論的な「批評」とは言いがたい感覚的・印象批評的な表現による、「主よ、汝を信ず」という信仰告白にしかなりえていないのである。ブルース・リー式(あるいはスター・ウォーズにおける「フォース」、そしてその源流である「禅」式)に言えば、「考えるな、感じろ」ということだとでも言おうか。つまるところ、盲信や熱狂なくしては近づきえない、「向こう側」の世界であると言ってもいい。


 言うなれば1967年以降のゴダール作品は、ひたすらゴダール信者を筆頭とする映画マニアにのみ向けられたものであり、おそらくそうでない大方の観客にとっては、思わせぶりな言葉や映像、音楽の垂れ流しとしか見えないかも知れない。極めて限られた「幸福な少数者」(by スタンダール。★★★)のみが玩味し陶酔することのできる内輪だけのオタク的世界、極言すれば作り手の自己満足によって作られた自閉的世界なのである。
 そうしたものを映画作家としての到達点であり芸術的進歩・深化と見なして良しとするか、ゴダールという映画作家の堕落/傲慢であり、想像力の枯渇でしかないと見て忌避するかは、結局のところ好みの問題でしかない。そして言うまでもなく私は、前者の信徒たちに属してはおらず、初期作品においてフランス映画に革新をもたらした同じ作家が、フランス映画(ひいては映画というジャンルそのもの)を破壊し、一部の俗物的なディレッタントの愛玩物にしてしまったとしか思えないでいる。
《★★★「TO THE HAPPY FEW」。この言葉は「赤と黒」や「パルムの僧院」の末尾、そして私は未読で実際に確認してはいないのだが、「ローマ散歩」の末尾にも記されているらしい。》


 以下は今回見た作品(今回見た通りの順に並べてある)。

・「勝手に逃げろ/人生」(1980年) 3.0点(IMDb 7.1) 英国版DVDで鑑賞(最初の写真)
《これは極めて政治的かつ個人的な映画を撮っていたゴダールが、久々に「商業映画」に復帰した作品だと言われているのだが、正直これには思わず笑ってしまう。果して「観客」の方が馬鹿になったのか、それともゴダールやその取り巻き(信者)の頭がおかしいだけなのか、少なくとも私はこんな作品をお金を払ってまで見る気には到底なれない(もっともその私も、レンタルだとは言え、お金を出してDVDを入手しているのだが)。途中で投げ出してしまうほどのひどさではなかったというだけで2点を献上したが、実質的には0点であり採点不能な作品だと言っていい。
 フランス語が美しい言語だなどというおめでたい幻想を抱いている人には、ぜひともこの映画を見てもらいたい。映画の内容もそうだが、作中で用いられている言語の卑俗さは、むろん監督のゴダールがあえて意図したものではあるのだろうが、聞いていてただただ不快になるだけである。俗語や卑語の比較的少ない日本語に比べ、フランス語という言語はなんと汚い言葉なのだろうかと改めて思ってしまう。》
 鑑賞直後に私は上記のようなことを書き、点数も2点としていたのだが、下に挙げるゴダール後期の作品を見ていくにつれて、この「勝手に逃げろ/人生」の評価は相対的に上がっていき(つまりそれだけ後で見た映画がひどかっただけのことである)、今からすればそれなりに「見られた」映画だったとまで思うようになり、評価も3点に改めた。イザベル・ユペールとナタリー・バイという、今ではフランス映画界を代表する女優に大成した2人の若き日の姿を見られることも、この作品の価値のひとつ(あるいはほぼ全て)だと言えるだろう(とりわけイザベル・ユペールは、若い時から今日まで、絶えず果敢な役柄に挑戦してきたのだということがよく分かる)。


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・「ウィークエンド」(1967年) 3.0点(IMDb 7.4) 英国版DVD
 これまた後の作品群に比べると、まだ「見られる」作品である。無数の引用や過剰なまでの卑俗さや残酷さ(最後には人肉食まで出てくる)、自動車が次々と破壊されていく点も含めた暴力・破壊の場面など、見る側の神経をあえて逆撫でし刺激するような映像や台詞、行動が執拗なまでに描かれている。有名な自動車の渋滞場面を撮った長回し撮影は確かに見ものではあるものの、皮相で技術的な撮影手法の提示に留まっていて、ゴダール信者たちが「絶讃」するほどにはこの作品の核心を成す機能的な役割を果しえているとは思えない。
 もっともルイス・ヘンリー・モーガンの「古代社会」と、その影響下にあるエンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」などについて長々と語られる部分などは、仏語音声と英語字幕で理解するのには非常に厳しく(そもそも作中でたびたび口にされる「モルガン」という名前も、エンゲルスの著作についてもまったく無知な私は、恥ずかしながらずっとモルガン・スタンレーのモルガンかと思っていたくらいで、映画を見た後で調べてようやく文化人類学者であることが分かった)、せいぜいこの長回し撮影くらいしか興味を惹かれるものがなかったというのも紛れのない事実である。


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・「はなればなれに」(1964年) 3.5点(IMDb 7.9) 英国版DVD
 1964年という比較的初期の作品であることもあって、今回鑑賞したなかでは最も「見られた」作品である。
 主人公3人(アンナ・カリーナ、クロード・ブラッスール、サミ・フレー)の有名なダンス・シーン(https://www.youtube.com/watch?v=u1MKUJN7vUk)や、彼らがルーヴル美術館一周の最短記録を更新するために館内を疾走する場面(こちらはベルナルド・ベルトルッチの「ドリーマーズ」で若き映画マニアたちが真似をして同じことを試みる)など、フランス映画の「名場面」として記憶され続けるだろう魅力的な場面も見どころである。男2人に女ひとりという構成はトリュフォーの「突然炎のごとく」を彷彿とさせ、ゴダール版「突然炎のごとく」だと言ってしまってもいいかも知れない。
 ちなみにこの映画の末尾で示されている「続編」が、翌年に公開された「気狂いピエロ」である。
 また、この映画の最後で語られるインディアンの伝説における「脚のない鳥」の挿話は、ウォン・カーウァイの「欲望の翼」で主人公(レスリー・チャン)の口にする脚のない鳥のことを想起させもする(もっとも元々の引用元はテネシー・ウィリアムズの「地獄のオルフェウス」らしいのだが)。


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・「万事快調」(1972年) 1.5点(IMDb 6.7) 英国版DVD
 この作品は劇場用映画から遠のいていたゴダールの久々の劇場用作品で、主演にイヴ・モンタンとジェーン・フォンダという有名俳優を起用してはいるものの、その内容は極めて政治的なものであり、劇場で上映する商業映画の体をまったく成していないと言っていい。しかもその政治性に関しても、果して一本の映画に託すまでのを内容を取り扱っているのか大いに疑問であり、ただただ労働者や資本家をめぐっての空疎なスローガンや政治信条が語られているという印象が強い。
 個人的に面白いと思った部分も、1972年という時点で既に現在とほとんど変わらない巨大スーパー(カルフール)が存在していたのだということ、映画「地下鉄のザジ」のなかで少女ザジを追いかけてクリニャンクール市場でムール貝を食べるおかしなおっさん(ヴィットリオ・カプリオーリ)が社長役で出演していて懐かしかったこと、食肉工場の作業をイヴ・モンタンが実際にやってみせているところ、そして映画の最後にかかるStone et Chardenという2人組の歌手による「Il y a du soleil sur la France」(フランスの上に太陽が)は70年代初めらしい脳天気な雰囲気の歌で面白かったということくらいで(https://www.youtube.com/watch?v=5a9mfNtcE-4)、要するにどうでも良いような細部でしかない。


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 以下の作品はいずれもほとんど私には理解不能である(従って点数にも余り意味はなく、いずれも私には評価不能であると言っていい)。特に2000年代の作品は「最後まで見通さなければ」という義務感でなんとか見終えただけで、途中から理解しようという意思すらもなくしてしまったというのが正直なところである。
・「アワーミュージック」(2004年) 2.0点(IMDb 7.0) 英国版DVD
・「ゴダールの決別」(1993年) 2.5点(IMDb 6.4) 日本版DVD
・「愛の世紀」(2001年) 1.0点(IMDb 6.5) 英国版DVD

 今回に凝りることなく、「MADE in USA」や「中国女」、「東風」など、いま手元にはなく未見の作品も、いずれ日本に一時帰国した際にでもレンタルしてみようと思っているところである。もっとも今回見た7作品と同様、おそらくこれらの作品も鑑賞した後で単に徒労感と時間を無駄に費やしたという後悔しか覚えることはないだろうと覚悟してはいる。


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 この間に読み終えた本は、

・スタンダール「赤と黒」、および「パルムの僧院」(前者は再読。いずれも岩波文庫版)
 この2作品については、おそらく次回記すことになるだろう翻訳に関しての記事で細かく触れる予定である。

・シェイクスピア「ソネット集」(岩波文庫版 高松雄一訳)
 有名な「君を夏の一日に喩えようか。/君は更に美しくて、更に優しい。/心ない風は五月の蕾を散らし、/又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。」(吉田健一「シェイクスピア」新潮文庫版より)という詩句で始まる「18」など、これまでところどころ拾い読みしてきた作品ではあるが、全篇を通して読んだのは今回が初めてである。
 この「恋愛詩」(と言ってしまっても構わないだろうと思うが)は、いずれも正体の知れない若く美しい青年と、「黒い女(Dark Lady)」と称される女性に対して、時にシェイクスピアらしいエロティックなほのめかしや言葉遊びも交えた助言や愛情告白、対象の称賛や絶対化とそれに対する自分自身への卑下などが滔々と記された詩集である。同じような内容がところどころで繰り返し語られてもいるため、全篇を通して読み続けるのは正直苦痛でもあったが、「黒い女」への思慕は、時代は下るがボードレールの「悪の華」におけるいわゆる「ジャンヌ・デュヴァル詩篇」を思い起こさせるもので興味深い。黒い(暗い)肌を持つ女性は、その見た目は言うまでもなく、ある種のエグゾティシズムや禁忌(?)、背徳的な要素(?)も手伝って、かつての西欧の詩人たちにとっては魅惑的な対象だったのだろうか。

 またこの間に見た上記ゴダール作品以外の映画は、

・「笑う警官/マシンガン・パニック」(スチュアート・ローゼンバーグ監督) 3.0点(IMDb 6.3)
 近年になってスウェーデン語原典からの翻訳が出始めている(それまでの日本語訳は英語からの重訳)マイ・シューヴァルとペール・ヴァールーによる「マルティン・ベック」シリーズの1つである「笑う警官」が原作。
 同シリーズの映画化作品としてはボー・ウィデルベルイ監督による「刑事マルティン・ベック」(原作は「唾棄すべき男」)が原作の雰囲気を伝えた佳作として知られているが、アメリカ映画である「笑う警官/マシンガン・パニック」の方は、舞台をストックホルムからアメリカのサン・フランシスコに変えて映画化してある。
 映画の出来そのものとしては凡庸であり、主演のウォルター・マッソーも影が薄く魅力に乏しいが、一方で「ブラック・サンデー」や「華麗なるギャツビー」などで個性的な役柄を演じ、高齢にもかかわらず近年もカンヌ映画祭で主演男優賞を獲得した「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」や、クエンティン・タランティーノの新作「ヘイトフル・エイト」にも出演し活躍し続けている怪優(?)ブルース・ダーンが、主役を食ってしまうような存在感を示している(ちなみにデイヴィッド・リンチの「ブルーベルベット」や「ワイルド・アット・ハート」、「ジュラシック・パーク」シリーズなどに出ているローラ・ダーンは彼女の娘である)。

・「福福荘の福ちゃん」(藤田容介監督)3.0点(IMDb 6.6)

・「にっぽん昆虫記」(今村昌平監督) 4.0点(IMDb 7.6)
 これまで何度も見てきた作品ではあるが、改めて見直してみても、人間を昆虫と同じくひとつの「標本」として執拗に観察し続ける偽悪的なまでに冷徹な人間描写がやはり強烈である。特にこの作品とほぼ同時期に公開された「彼女と彼」(羽仁進)や、内田吐夢の「飢餓海峡」を見た後で、主演の左幸子(この作品への出演時は30代前半)の演技をつぶさに見てみると、魅力的な妙齢の女性から老練な年増女までを演じ分けていくその役作りの巧みさを実感することが出来る。「飢餓海峡」とともに、彼女の代表作と呼ぶにふさわしいと言えるだろう。
 黛敏郎の音楽もいつもながらに不気味かつ滑稽で、この極めて不穏でやはり「不気味かつ滑稽」な映画にうまく適合している。
 ちなみにWikipedia(情報源はキネマ旬報)によれば、この作品は1963年度の配給収入の邦画部門で1位、総合でも4位という驚くべき成績をあげている。当時としてはスキャンダラスな題材の内容だったろうとは言え、一般受けのするエンターテインメント作品とは到底言いがたいこのような映画が、興行的にも大成功を収めたということから、当時の日本映画界が、優れた作家が次々輩出したというだけでなく、観客側のレヴェルも今日とは比較にならないくらい高かったということが分かるだろう(ちなみに同年の配給収入ベスト3は、「史上最大の作戦」、「アラビアのロレンス」、「大脱走」である)。