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  ロンドン漱石記念館の入っている建物

 

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  建物1階にあるロンドン漱石記念館の案内

 

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  その向かいにある漱石の下宿跡(の建物)

 

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  その建物に掲げられている漱石のブルー・プラーク

 

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  グレアム・グリーンの住んでいた建物

 

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  その建物に掲げられているグレアム・グリーンのブルー・プラーク

 

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  エドヴァルド・グリーグの滞在していた建物

 

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  その建物に掲げられているエドヴァルド・グリーグのブルー・プラーク

 

 2016年9月8日(木)
 22年ぶりどころか観測が始まって以来(100数年ぶり)の猛暑だったらしい韓国の夏も、8月末になると急激に終わりを告げた。今でも日中の最高気温が30度を越えることはあるものの、すっかり日は短くなり、朝晩も一気に涼しくなってきた。これから短い秋が通り抜け、また長く陰鬱な冬を迎えることになるのだと思うと、早くも来年の春が待ち遠しく思えてならない。

 既にあちこちで報道されているが、ロンドンのクラパム・コモン(Clapham Common)にある「倫敦〈ロンドン〉漱石記念館」(以下「ロンドン漱石記念館」)が今月の28日(水)で閉館になる。熊本にある崇城大学・総合教育センターの教授であり漱石研究家でもある恒松郁生氏が、英国留学時に漱石が最後に(そして最も長い間)滞在していた下宿の向かいにあるフラットを私費で購入し、漱石に関わりのある資料や書籍などを少しずつ集めて展示している私設記念館である。毎年2月から9月までの不定期な開館ではあったものの、1984年以来32年の長きにわたって維持されて来た。
 ロンドン中心部から少し離れた南部の郊外に位置していることもあり、ロンドンに住んでいる人でも、よほど漱石が好きで漱石のロンドン滞在に関心を持ってでもいないかぎり、なかなか訪ねようという気にはならないかも知れない。入場者数の減少や、英国のEU離脱決定によるフラットの価格下落などを受けて閉館を決めたそうだが、やはり個人でこの種の記念館を運営していくのは経済的にも大変厳しかったに違いない(同記念館については右のアドレスを参照のこと。https://www.facebook.com/notes/%E5%80%AB%E6%95%A6%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E6%BC%B1%E7%9F%B3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8/%E5%80%AB%E6%95%A6%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E6%BC%B1%E7%9F%B3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/1551382861822794)。
 これまで同氏が収集してきた漱石関連の資料は目下引き受け先を探しているところらしく、漱石研究にも役立つような資料が散逸することがないよう祈るのみである。


 クラパム・コモンの漱石の下宿跡には、日本人のものとしては唯一のブルー・プラーク(青色の銘板。https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502037939.html)が掲げられているが、この街には英国の作家グレアム・グリーンやノルウェイの作曲家エドヴァルド・グリーグなどが滞在していたこともあり、彼らの住居や滞在先にもブルー・プラークが設置されている。特にグレアム・グリーンの代表作のひとつ「情事の終わり」はクラパム・コモンが舞台だと言われており、この作品を愛読してきた私は何度かこのクラパムの地を訪れ、時代は異なるものの、漱石やグリーン、グリーグなどが歩きまわっていた街の雰囲気を少しでも味わおうと、通りや公園を散策してまわったものである。


 漱石記念館の閉館を伝える共同通信の記事には、皇太子(徳仁親王)や元首相の海部俊樹氏、作家の司馬遼太郎氏らがかつてこの記念館を訪れたと紹介しているが、私が同記念館を訪れた際には、作家の遠藤周作氏の色紙が館内に飾られていたのを覚えている(当時館長の恒松郁生氏は日本に帰国中で、氏の奥様が館内を案内してくれた)。
 記念館が閉館になるという話を伝え聞いたのは今年の春のことで、漱石作品の愛読者、そして漱石自身は嫌っていたというロンドンをこよなく愛する人間として非常に残念だとは思ったものの、一個人にいつまでもこの種の記念館を維持してもらうには無理がある上、日本政府がこの種の記念館の維持のために資金援助を行うとも思えなかったため、致し方ないと思うしかなかった(万が一政府が少しでも資金を出す気があるのであれば、この記念館の正面にある、かつて漱石が下宿していた建物自体を購入して欲しいところである。もっともこのあたりは今では高級住宅街となっているため、EU離脱決定による不動産相場やポンドの下落を考慮したとしても、ゆうに数億円はかかるかも知れない)。

 (後で以下の説明を各写真に加えたが)上の写真は順番に、ロンドン漱石記念館の入っている建物、1階に掲げられている同記念館の案内、漱石の下宿跡(の建物)、その建物に掲げられたブルー・プラーク、グレアム・グリーンの住んでいた建物とグリーンのブルー・プラーク、エドヴァルド・グリーグの滞在していた建物とブルー・プラークである。

 ロンドン漱石記念館に飾られていた遠藤周作の色紙も写真におさめたはずなのだが、他の写真ファイルに紛れてしまって見つけることが出来なかったので、いつか「発掘」したら最後に掲げておくつもりである。

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 この間に読み終えた本は、以下の2冊。
 これと並行してギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」や韓国語の短編集も読んでいるところである。


・林芙美子「浮雲」(青空文庫Kindle版)
 以下でも触れている成瀬巳喜男の映画は何度か見てきたものの、原作を読み通したのは今回が初めてである。小説を読んでいても高峰秀子や森雅之の顔が浮かんで来てしまい、特に主人公の富岡兼吾のような、ふだんはなよなよとした優柔不断な優男でありながら、気に入った女がいればすぐにちょっかいを出して関係を結んでしまうようなダメ男を演じさせたら右に出る者のない森雅之はまさに適役で、まるで小説自体がこの俳優をモデルに書かれたのではないかと思ってしまうほどである。
 林芙美子はこの救いようのないダメ男の生態を極めて詳細かつ説得力をもって描き出しており、その観察眼には改めて驚かされる。おそらく自分自身の人生もいくらかは投影されているに違いない女主人公・幸田ゆき子が、富岡兼吾に翻弄されながらも未練を断ちきれずに破滅していく様を、作者は少しの憐憫や同情もかけることなく、冷酷なまでに淡々と描き出していく。そうした女の性(さが)のありのままの様態を過不足なく描きえたのは、体ひとつで社会の底辺から這い上がり、貞操観念や羞恥心などというものとはほとんど無縁なまま、奔放で我が儘な生を生き抜いた作者の生き様があったからこそかも知れない。


・松尾芭蕉「おくのほそ道」(Kindle版 上妻純一郎氏による現代語訳付)
 Kindleで現代語訳の付いたものが安価で入手できたので、実に久しぶりに読み返してみた。以前見たNHKのドラマ「冬の桃」で、詩人の西東三鬼が常に携えていたのも「おくのほそ道」の文庫本であり、主人公の西東三鬼役の小林桂樹が、一人二役で「おくのほそ道」の旅中における芭蕉をも演じていた。
 「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」で始まる有名な冒頭部などの抜粋を中学校の教科書で読んだ後、少なくとも一度は全文を(おそらく今回と同じく原文と現代語訳とを見比べながら)通読したはずなのだが、「冬の桃」でも描かれていた伊勢参宮途中の遊女たちとのエピソード(31 市振。「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」)や、生き死にも分からないでいた旧友との再会(41 福井)、ますほの小貝を拾いに舟を出し、浜辺(種の浜)にある漁師の家で食事をとり酒を飲む秋の一日(43 種の浜。「寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋」、「波の間や小貝にまじる萩の塵」)などを除くと全体に淡々とし過ぎていて(それがまさしく「わび・さび」というものなのかも知れないが・・・・・・)、数十年前に覚えた興趣や感慨はもはやふたたび甦っては来なかった。

 この間に見た映画は、

・「アメリカン・グラフィティ」(ジョージ・ルーカス監督) 4.0点(IMDb 7.5)再見
・「未知との遭遇ファイナル・カット」(スティーヴン・スピルバーグ監督) 4.0点(IMDb 7.7)再見
・「ジョーズ」(スティーヴン・スピルバーグ監督) 4.0点(IMDb 8.0)再見
・「グッバイガール」(ハーバート・ロス監督) 3.0点(IMDb 7.4)
 いずれも俳優のリチャード・ドレイファス主演作品で、今回まとめて鑑賞してみた。果して優れた俳優なのかどうは私には判断がつきかねるのだが、上記の作品はいずれも傑作・名作の名に恥じないものばかりであることだけは間違いない。
・「浮雲」(成瀬巳喜男監督) 4.0点(IMDb 7.9)
 原作を読んだついでに再見。日本映画史上の傑作のひとつと言われながらも、個人的にはどうにも生理的に好きになれないできた作品なのだが、原作を読み通してみて初めて多少の興趣を覚えることが出来た。しかしこれが日本映画の屈指の作品かと改めて問われたとしたら、やはりすんなりと首肯することは出来そうにない。
・「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督) 3.5点(IMDb 8.1) ケーブルテレビのVOD(ヴィデオ・オン・デマンド)で無料鑑賞。再見。
 今回初めて気づいたのだが、作中に出てくる釣りの場面は、小津安二郎の「父ありき」(あるいは「浮草物語」)での親子の釣りの構図をそのまま用いていて小津へのオマージュとなっているようである。
・「キッズ・リターン」(北野武監督) 3.5点(IMDb 7.6) これまたケーブルテレビのVOD無料鑑賞。再見
 やはり個人的には北野武作品のなかで一番好きなものである。他の作品同様、つまらないコントやギャグの場面は白けるだけだが。
・「ジャージー・ボーイズ」(クリント・イーストウッド監督) 3.0点(IMDb 6.9)
 音楽映画であるにもかかわらず、作中の歌が今ひとつというのが残念である。もっともフランキー・ヴァリのような個性的な歌声をそうそう簡単に真似できるはずはないので、作品の(音楽的)リアリティのためにも無理に俳優に歌わせる必要はなかったかも知れない。
・「グッドフェローズ」(マーティン・スコセッシ監督) 3.5点(IMDb 8.7)
・「大陸横断超特急」(アーサー・ヒラー監督) 3.0点(IMDb 6.9)
 先日亡くなったジーン・ワイルダーの主演作品。監督のアーサー・ヒラーもたまたま今年亡くなっている。作品そのものはドタバタ喜劇+サスペンスで平均的な出来。
・「KANO 1931海の向こうの甲子園」(マー・ジーシアン監督) 3.5点(IMDb 8.0)
 安っぽいCGや紋切型の台詞に興ざめする場面もあるものの、以前見たトンデモ映画「セデック・バレ」の監督ウェイ・ダーションが、前作とは打って変わって模範的なまでの感動作に仕上げた作品(ウェイ・ダーションは製作と脚本のみで、監督は若手のマー・ジーシアンが担当)。前作とは対照的に、台湾を統治した日本をほとんど美化しているとも言えるようなこの作品は、「セデック・バレ」とは全く正反対の意味合いにおいて、やはりひとつのファンタジー映画だと言ってもいいのかも知れない。
 ただでさえ「親日」的な台湾に対して好意を抱く日本人は結構いるようで、韓国に対しては罵詈雑言を投げかけるような(極)右派・保守派の間でも台湾には好意的な傾向があるのだが、作中で初めてヒットを放った弱小チームの選手に対して、敵の強豪チームの選手が「まぐれ、まぐれ」と言って揶揄するのに対し、「俺が自分で言うのは反省として良いが、(他人の)おまえが言うのは侮辱だ」と言い返す場面があるように、台湾人自らが日本統治下の台湾を懐かしんだりするのは良いとしても、日本人がそれにそのまま乗っかって台湾統治時代を肯定・美化するのは、やはりお門違いと言うものだろう。
 そもそも「セデック・バレ」のみならず、台湾前総統・馬英九氏の日本に対する批判的な言動や上記「セデック・バレ」のような映画にも如実に見てとれるように、台湾の人が皆「親日的」だなどというのは単なる日本人の希望的な思い込みに過ぎないだろう(一方で、日本の対台湾窓口機関である交流協会台北事務所が先に行った世論調査の結果、56%の人が日本を最も好きな国として挙げ、これは2位の中国(6%)を大きく引き離し、過去最高の比率だったように、日本に好意的な台湾人が多いのも確かではある)。
・「インターステラー」(クリストファー・ノーラン監督) 4.0点(IMDb 8.6)
 途中までは哲学的なハードSFを期待して見ていたのだが、結局は「家族愛」という如何にもハリウッド的な主題に帰してしまうところが惜しまれる点である。マット・デイモン演ずるマン博士をめぐるエピソードは、この作品がモデルにしているだろう「2001年宇宙の旅」におけるHAL9000とボーマン船長との葛藤の場面と比べてしまうと、余りに通俗的で作品全体の雰囲気にもそぐわず、浮いてしまっている。
・「キャプテン・フィリップス」(ポール・グリーングラス監督) 3.0点(IMDb 7.9)
 一般には高評価を受けているようだが、毎日のように数多くの生命が無差別テロなどによって奪われている世界の現状を思うと、「警察国家」アメリカの海軍が大活躍してソマリアの海賊たちを一掃し、人質の米国人船長が解放されて事件が一気に解決するという最後の展開は米国海軍の宣伝めいていて胡散臭く、かつ生ぬるい。実際の事件を元にしてはいるものの、莫大な予算をつぎ込んで映画にするような内容であるとは最後まで思えないままだった。
・「それでも夜は明ける(原題;12 Years a Slave)」(スティーヴ・マックイーン監督) 4.0点(IMDb 8.1)
 声高に黒人奴隷制度を批判・告発するのではなく、淡々と事実を積み重ねていく手法には好感が持てる。最後に字幕でも示されているように、ある日突然拉致されて奴隷として売り払われた黒人たちのほとんどは、12年という長い歳月を経てではあるものの、元の生活に戻ることの出来た主人公(実在の人物の体験に基づいている)とは異なり、歴史の闇のなかに消えていった。それゆえに主人公が家族のもとに戻り、再会の涙を流す場面を目にしても、その背後に埋もれていった無数の人々のことが思い出されてカタルシスは訪れることなく、人間存在に対する陰鬱な思いが残るだけである。上記の「インターステラー」のなかで「悪とは人間だけが為すものなのか」という問いかけが為されるが、まさに人間だけが為しうる悪の一端を垣間見させられるような作品である。
・「暴力脱獄(原題;Cool Hand Luke)」(スチュアート・ローゼンバーグ監督) 3.5点(IMDb 8.2)
 主人公のルーク(ポール・ニューマン)がゆで卵50個食べ終えた後にイエス・キリストの磔刑を思わせる格好で寝転がる姿や、収容所のかたわらに掘らされた穴に倒れこむ場面、作品の最後で俯瞰ショットで映しだされる十字路や、その上にかぶさる主人公ルークの写真(しかも十字の形に破られたのをつなぎあわせてある)など、あちこちにキリスト教的な隠喩が散りばめられていて、ルーク=イエスというメッセージを読み取ることはたやすいものの、その本当の意味合いを十全には理解しえないままである。
 墓穴に落ちて一旦「死んだ」ルークが、その後ふたたび収容所を脱走してイエスのように「復活」し、最後にはユダ(ジョージ・ケネディ演ずるドラグライン)に告発されて警察官の銃弾に倒れ、「昇天」していくという物語は、あからさまなまでにキリスト教的であり示唆的だが、信仰も信念もないまま、ただなにもかもを疑って冷笑し、ほとんど無思慮なまでに体制に抗うだけのルークの姿に、キリスト像を重ね合わせることは難しくもある。ちょうど同じ時期に公開された「俺たちに明日はない」や「イージー・ライダー」、「明日に向かって撃て」などのアメリカン・ニューシネマの作品と同じ脈絡で読み取る方がより受け入れやすいのかも知れないが、それにしては宗教色が勝ちすぎている。

 以下は映画ではなく連続ドラマだが、
・「コナン・ドイルの事件簿」(原題:Murder Rooms:The Dark Beginnings of Sherlock Holmes)
 シャーロック・ホームズの産みの親コナン・ドイルのエディンバラ大学時代の恩師であり、ホームズのモデルになったと言われているジョゼフ・ベル教授と弟子のドイルが、難事件を解決していくという1話完結型ドラマ(全5話)。推理ドラマとしては中途半端な話が多く、若きドイルが自殺(?)してしまった恋人のことをウジウジと回想する場面が多く、出来は今ひとつである。ベル教授をイアン・リチャードソン、ドイル(ただし第2話以降)役を「ダウントン・アビー」にも(次女イーディスの夫?であるマイケル・グレッグソン役で)出演していたチャールズ・エドワーズが演じている。
・「Yの悲劇」(エラリー・クイーン原作。1978年制作の日本のドラマ)
 原作は未読。海外の推理小説の名作を挙げる際には必ず上位に選ばれる有名な作品だが、途中で犯人は自ずと分かってしまい、また犯人の末路も釈然としないままで、このドラマ版を見るかぎりでは、正直さほどの名作とは思えない(もっとも部分的に原作と異なる設定があるようなので、原作を実際に読むまで判断は保留するしかないが)。
 また格好こそ違え、探偵役の南郷亮治を演ずる石坂浩二は、このドラマの2年前に始まった市川崑監督による「金田一耕助シリーズ」そのままの演技で、両者を区別することがほとんど出来ないほどで、「石坂・金田一」のファンであれば見逃せない作品だと言えるかも知れない。