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 2016年3月1日(火)
 今日3月1日は、ここ韓国では1919年に起きた三・一独立運動を記念した「三一節」(サミルチョル)という休日である。


 今から26年前、いわゆる卒業旅行で韓国を訪れた際にちょうどこの3月1日にぶち当たったことがあるのだが、昼間からテレビで大日本帝国の悪行を描いた抗日映画や抗日ドラマが放映されていたのを今でもよく覚えている。最近ではさすがにそんなことはなくなった(はずだが)、そもそも韓国のテレビはニュース番組か動物番組、あるいはグルメ番組しか見ないので(要するに韓流などの大衆文化には基本的に興味がないということである)、実は未だに抗日ドラマを放映したりしているのかも知れない。
 ともあれ、数々の悪行を犯した(らしい)極悪非道な倭奴(ウェノム)たちの子孫としては、大統領がこの日のために国民向けに談話を発表する(そしてその内容は当然、日本に好意的な内容であるはずがない)この3月1日と8月15日だけは、たとえ実際にはなんの問題もないだろうと分かってはいても、好んで外をぶらぶらしたいとは思えない日である。幸いいずれも休日であるから韓国語の授業などもなく、自分からわざわざ外出しようと思わないかぎりは特に用事もないため、あくまで結果的にではあるが、4年近く前に韓国に来て以来、この両日に外出したことはおそらく一度もないはずである(今日も老犬を連れて近くの公園を散歩した他には家に引きこもっていた)。


 ついでに書いておけば、徐々に春めいた陽気になりつつあった韓国だが、ここ数日は寒波が戻ってきて、おとといにはこの冬、最も積雪量が多かっただろう雪が降った(ただし路上の雪はすぐに溶けてしまい、屋根の上や日陰、土の上などに残った雪がなかなか溶けずに多少残っているという程度である)。明日からは一転して最高気温が10度を超える日が続く予想で、このまま一気に春に近づいてくれることを願うのみである。

 今回は久々の韓国ネタだが、先日通りを歩いていて、最初に写真を掲げたような外国語表示のある案内板を見かけた。
 ある地下鉄駅を出てバスに乗り換える停留所の近くに立てられていたものなのだが、この日本語表記が不自然なので写真に撮ってみた次第である。もっとも韓国でおかしな日本語表記に出くわすことは別段珍しいことではなく、インターネットで「韓国 おかしな日本語」とでも画像検索してみれば、たちまち多くの例を目にすることが出来るはずである。
 そもそもこの種の間違いがあったり奇妙な外国語表記は、韓国に限らずどこの国でも(むろん日本でも)見られるに違いない(以前このブログでもヘンテコなフランス語や英語を紹介したことがある。https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502039614.html)。特にインターネットなどで自動翻訳が簡単にできるようになってからは、自動翻訳したものをネイティヴにチェックしてもらうことすらせず、そのまま看板やら食堂のメニューに使う例が増え、おかしな表現や間違いが街なかに氾濫するようになった。
 文法的に似通っていることもあって、日韓・韓日の自動翻訳は比較的マシな方ではあるのだが、微妙な文法の違いや同音異義語などもあって、当然間違いが生ずる。従って最終的に両国語を知っている人間がチェックして修正しないかぎり、自然な表現どうこう言う以前に、そもそも意味の通じない文章が出来上がることがままある。
 ただし以下に紹介する例は、日本語そのものが変だというよりも、表記方法がおかしいという例で、奇妙ではあってもクスクス笑えるようなものではないので悪しからず。

 1~2枚目の写真にある「ヤンジェ・シミネスプ」や「ナンブ・トミナル」というのは、この駅から比較的近くにある「良才(ヤンジェ)市民の森」という公園と、「南部ターミナル(正確には南部高速ターミナル)」というバス・ターミナルのことである。
 いずれも韓国語の発音をそのままカタカナ表記しているだけなので、韓国語を知らない人には意味不明だと思うのだが、実はこうしたハングルそのままのカタカナ表記が韓国では一般的である。

 

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 上の写真にある「江南大路」と書かれた道路標識にある「カンナムデロ」もその一例だが、ハングルそのままをカタカナ表記する目的は、おそらくある場所や道路を目指して行く場合、韓国語に(比較的)近い発音であれば、場所が分からず周囲の韓国人に教えてもらうことになった際、多少は話が通じやすいだろうとの配慮(?)からだと思われる。
 ソウルの地下鉄でも主要な駅では、英語や中国語とともに日本語の車内放送が流れるのだが、この際も「次の駅はトンデイプク駅です」とか「次の駅はウォルドコップキョンギジャン駅です」などという、奇妙な日本語を耳にすることになる。ちなみに前者は「東大入口 동대입구」駅(と言っても東京大学ではなく、仏教系の東国(トングク)大学校)、後者は「ワールドカップ競技場 월드컵 경기장」駅である。

 上記のTerminalやWorld Cupなどのように、元の単語が英語であっても、日本語と韓国語とでは発音や表記がかなり異なるため、韓国語の方式に慣れていない人にはなにを言っているか理解できない場合が多いだろう。よく知られている例を挙げれば、元米国陸軍元帥の「マッカーサー」は韓国語では「メガド 맥아더」(https://ja.forvo.com/search/%EB%A7%A5%EC%95%84%EB%8D%94/)であり、元英国首相の「サッチャー」は「デチョ 대처」(https://ja.forvo.com/search/%EB%8C%80%EC%B2%98/)となる。
 これまでも何度も紹介してきたが、例えば英語を表記する際、日本語では「ア」と表記するものは、韓国語では元の英語の発音によって「オ」や「エ」となり(「ӕ」→「エ」、「ʌ」→「オ」、「ə」→「オ」 例:Map 「マップ」→「メプ 맵」、Cut「カット」→「コッ 컷」、Center「センター」→「セント 센터」)、また「オ」音は「ア」になることがある(「ɑ」→「ア」 例:hot 「ホット」→「ハッ 핫」。ちなみにこの「핫」で画像検索すると、おかしな画像がたくさん出てくるのでお試しあれ)。


 また上記の「MacArthur マッカーサー」や「Thatcher サッチャー」などにあるように、「th」音は「ダ」行の音になることがあり、「f」音は「パピプペポ」で代用する(例:Figure 「フィギュア」→「ピギョ 피겨」。「フィギュアスケーティング」→https://ja.forvo.com/search/%ED%94%BC%EA%B2%A8%EC%8A%A4%EC%BC%80%EC%9D%B4%ED%8C%85/)。さらに日本語では上の「センター」のように長音で表記するものも、韓国語では短音のままである(Center=「セント」、Water=「ウォト 워터」、Peter=「ピト 피터」)。
 例外もあるが、語中の「L」音は「R」音と区別するために「L」を2つ重ねて表記される(例:「Douglas」→「ドグルロス 더글러스」 従って「ダグラス・マッカーサー」は「ドグルロス・メガド 더글러스 맥아더」となる)。★(→記事の最後へ)


 また固有名詞であっても、韓国語の発音規則である連音による音の変化(「N」音+「L」音→「LL」音、「M」音+「L」音→「MN」音 例:「万里 Man-Li マンリ」→「Mal-Li マルリ 만리」、「十里 Sim-Li シムリ」→「Sim-ni シムニ 십리」)に従って、音が変化してしまう。このためシェイクスピアの「ハムレット(Hamlet)」も韓国では、最後の「t」も「ッ」のような促音となるため、「ヘムリッ」→「へムニッ 햄릿」と変化して、いったい誰のことやら分からなくなる(ちなみに上記の「マッカーサー→メガド」も、本来は「メク(Mac)맥」+「アド(Arthur)아더」であるが、仏語のリエゾンやアンシェヌマンと似た連音システムによって、清音の「ク」が濁音化して「メク+アド(맥+아더)」→「メガド 맥아더」と変わっている)。

 ついつい細かい話にそれてしまったが、上の写真のような掲示物であれば、大抵中国語(簡体字の漢字)も併記されているため、元の言葉が漢字語であれば、その意味や地名をおおよそ類推することはできる(「カンナムデロ」→「江南大路」)。しかし車内放送のように音だけで把握するしかない場合には、韓国語式に「ソウルリョク」などと言われても、それが「ソウル駅」のことだとは即座には分からないだろう(https://www.youtube.com/watch?v=S0ru8mlOwRM←既にリンク切れ。もっともソウル駅など一部メジャーな駅名は、「ソウル駅」と日本語でそのまま駅名を言っている場合もあり、どういう線引きをしているのか、実のところよく分からない)。


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 上の写真の日本語表示は表記方法が独特で、漢字の途中で振り仮名をいちいち振ってあり、しかも「瑞ずい草くさ文化ぶんか芸術げいじゅつ情報じょうほう学校がっこう」のように、「瑞草(ソチョ)」という固有名詞も、わざわざ漢字ごとに読み方を振っているので非常に読みづらい。
 そもそも学校や銀行、駅などなら、日本語がある程度出来る人なら振り仮名なしで読めるはずだし、英語や中国語が分からず、日本語の平仮名やカタカナしか読めないような観光客がどれほど存在するのか疑問である。しかも固有名詞の振り仮名はこの「瑞草(ずいくさ)」のように現地読み(ソチョ)ではなく、かなり恣意的に音を当てているだけなので、振り仮名を振ること自体、無意味であるとしか思えない(従って、この掲示に記されている発音そのままで道を尋ねてみたとしても、韓国人はもちろん、韓国語の出来る日本人でも理解できないだろう)。

 具体的に実例にあたっていくならば(数字は上の写真中の番号)、

①「大明だいみんビル」
 なぜ「明」だけいきなり中国式の発音になっているのか不明。
②「瑞ずい草くさ文化ぶんか芸術げいじゅつ情報じょうほう学校がっこう」
 3枚目の写真にある掲示では、「瑞草」という区の名前は韓国語発音で「ソチョ(서초)」と記載されているのに、なぜか此処では訓読みの「ずいくさ」という振り仮名があてられている。しかも「ずいそう」ではなく、わざわざ音読みと訓読みを混ぜた重箱読みになっていて違和感しか覚えない。

③「坊ぼうやワールド」

 韓国語では「赤ん坊ワールド」、英語名称では「Baby World」となっているのが、日本語では「坊やワールド」と翻訳されている。
④「西和せいわビル」
 元の韓国語は「ソイル(서일)ビルディング」となっているのだが、「西和」では「ソホァ(서화)」としか読めない。ちなみに中国語表記も「就是大楼」となっていて(「就是」は「その通り」といった意味らしい)、元の言葉が漢字語なのかどうかすら分からない。
⑤「道どう谷こくプルジオマンション」
 「道谷」の振り仮名が、「どうや」や「みちたに」、「どうたに」でも「みちや」でもでなく、「どうこく」なのは、単に韓国語式の発音が「トゴク(도곡)」だからだろう。
⑥「ウングヮン女子じょし高こう」
 かと思えば、これは「おんこう(恩光)」ではなく、突然、韓国語式の「ウングヮン」という表記になっている。
⑪「オンジュ小しょう学校がっこう」
 なぜ「しょうがっこう」としないでわざわざ「小」と「学校」を分けているのか意味不明。

 中国語表記も中途半端で、元の漢字が分からないものや固有の韓国語の名称はそのままハングル表記にするという方針なのか、「小学언주(オンジュ)」となっている(最初の2文字だけで「小学校」だということは分かるのだろうが・・・・・・)。

 同様に The Oville や Standard などの元が英語(?)の名称までも、「塔良才디오빌(ディオビル)」や「打銀行스탄다드(スタンダード)」などと、「漢字+ハングル表記」になってしまっていて、ハングルが読めない中国圏の人にはただ意味不明なだけだろう。後者「打銀行스텐다드(ステンダドゥ)」は、スタンダードチャータード銀行の中国名「渣打銀行」の最初の「渣」が切れてしまったのだろうか。
㉔写真の映りが悪いので見づらいが、「韓国かんこく産業さんぎょう振興しんこう協会」。長すぎて表記しきれなかったためか、最後の「協会」には振り仮名が振られていない。このあたりは韓国らしいいい加減さである。

★このため、なんでも素直に信じてしまう脳天気な人の中には、韓国人のハングル民族主義にのせられて、「ハングルでは R と L を区別して表記できる!」などと言いたがる人がたまにいるのだが、その「R」音の表記なるものも、実際は単に「L」音を2つ重ねているだけで、日本語同様、「R」音自体は韓国語には存在しない。
 さらに語頭ではこれら2つの音は区別されることがなく(従って「Rice」も「Lice」も同じ「라이스(ライス)」である)、「R」音の場合は語中や語尾に来る場合、上の「MacArthur メガド」や「Water=ウォト」のように表記すらされないこともあり、単に語中の「L」音は「LL」音、「R」音は「L」音と表記するという(中途半端な)規則を恣意的に作ったに過ぎない。
 日本語にも「ヴ」という「V」を表記するための文字がある(作られた)が、これを律儀に「V」音で発音している人などほとんどいないだろう(しかもスペイン語などでは基本的に「V」も「B」と同じ発音であり、画家のベラスケス(Velazquez)を「ヴェラスケス」と書いたり、反対に仏語のdébut(デビュ)を、気取ってなのかなんなのか、わざわざ「デヴュー」などと誤って書いてしまうケースも生じやすい)。
 日本語でも「L」音と「R」音を区別して表記したければ、「ラリルレロ」に濁点をつけ、長音で表記してきた「R」音は「ー」に濁点をつけるという方法などをやはり恣意的に導入可能だろうが、仮にある程度「L」と「R」の表記を区別できたところで、「R」音が発音できるようになる訳でもなんでもない。所詮は単なる決め事であり、見苦しい悪あがきでしかないのである。

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 この間に読了した本は、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」(新潮文庫版、福田恆存訳)のみ。
 この作品に見られるようなユダヤ人に対する侮蔑意識は、当時の英国においては極めて一般的な考えだったらしいのだが、新潮文庫版の訳者の福田恆存と解説者の中村保男は、シェイクスピアは実際にはユダヤ人に会ったことすらないだろうと書いてもいる。その後の研究がどう進展したかは分からないが、このユダヤ人へのあからさまな侮蔑部分には違和感を覚えざるをえないものの、複数の人物関係とエピソードを巧みに配置・展開し、結末へと導くドラマツルギーは見事という他なく、結末部で不実(?)な夫たちをチクリと刺す妻たちのユーモアあふれる描写がこの軽やかな喜劇にふさわしい軽妙な締めくくりになっている。
 この作品にも自分の正体を隠して他人に変装する登場人物が出てくるのだが、貿易商人のアントーニオが投資している貿易船がすべて沈没してしまう(後にこれは誤報だと分かるのだが)ことなど、「リアリティ」という面からすれば多少無理な設定もあるのだが、しかし終幕ではユダヤ人であるシャイロックをも含む登場人物たちが「赦される」キリスト教的な側面も垣間見られ、観客(読者)は軽やかな笑いとともに、大きなカタルシスを味わうことができる。

 映画の方は、

 

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・「アウトレイジ」(北野武監督) 3.0点(IMDb 6.8) 日本版DVD
 プロットらしきものは一応あるにはあるが、ヤクザ社会における熾烈な抗争を、息つく暇もないほどの暴力描写で立て続けに描いてみせ、一気に結末まで持っていく。弛緩のないその映画作法はもはや職人芸の域に達していると言ってもいいが、如何せん物語が往々にして余りにファンタスティックで、ヤクザが同類相食む物語にも既視感を覚えざるをえない。
 以前「渇き。」という作品について触れた時にも書いたことだが、表面上は「悪」として描かれている事ごとが、単に表面的な暴力や怒号でしかなく、そこで流される血の量や銃撃のものものしい音にもかかわらず、少しも恐ろしさを感じさせないのはこの作品も同じである。むしろデビュー作である「その男、兇暴につき」などの方が、観る側が先を読み取れない不穏な暴力性や唐突さが横溢しており、遙かに不気味で怖かった気がする。技術的な完成度は高まってきているものの、依然として自作の(劣化した)模倣・反復から抜け出しえていないのである。


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・「赤い影」(ニコラス・ローグ監督) 3.0点(IMDb 7.4) 日本版DVD
 荒涼としてくすんだ色の冬のヴェニスを舞台にしたホラー?(上の写真にある通り、DVDには「オカルト・サスペンス」とある)作品で、Time Out誌などでは英国映画のベスト1に選ばれたこともあるというカルト的作品である。
 とりわけ後の映画監督たちが赤という色や赤い服、こびとなど、この作品に登場するイメージをオマージュして描いていることでも知られており、私もこの映画を見ながら、黒沢清の「叫」やデイヴィッド・リンチの「ツイン・ピークス」などを思い浮かべたものである(他にもM・ナイト・シャマランの「シックス・センス」などが大きく影響を受けているらしい)。
 冒頭のドナルド・サザーランドとジュリー・クリスティ夫婦の子供が死んでしまう場面から後は、仕事でヴェニスに滞在しているこの夫婦が、霊感の持ち主で、死んだ子供の姿が見えるという老女姉妹と出会ったり、この夫婦のハードコアまがいのベッドシーンなどがダラダラと続いて中だるみするのだが、中盤あたりから突然不穏な雰囲気が漂いはじめ、後は一気呵成に衝撃的かつ悲劇的な結末へと流れていき、不気味な音楽を聴いているだけでも息が詰まりそうな感覚になる。
 DVD特典であるメイキングや監督のコメントを聞くと、この映画はホラーでもオカルトでもなく、男女(夫婦)間の危機やコミュニケーションの不可能性を描いた作品だということらしく、また作中に出てくる謎めいた映像やカットなどについても、作り手側からの解説や謎解きを知ることが出来る(しかしこの種の解説や種明かしをどこまで信じていいのかは疑問であり、またそうした説明によってすんなり納得できるかどうかも別の話で、いずれにしてもメイキングやコメントなどの余計なものは見ずに、映画そのものを鑑賞することをお勧めしたい)。
 どうでも良いことだが、若き日のジュリー・クリスティは、特に笑ったときなどにナタリー・ポートマンに実によく似ていると思ったものである。


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・「千と千尋の神隠し」(宮崎駿監督) 4.0点(IMDb 8.6) 日本版DVD
 初見の時は正直今ひとつ釈然としなかった記憶があるのだが、今回見直してみて、「不思議の国のアリス」など、異界や夢での体験という枠を借りつつ、宮崎駿独自の想像世界を十全に構築・表現しえた傑作であると感じた。アニメーション映画としても、初期の「カリオストロの城」や「風の谷のナウシカ」などの(今から見れば)素朴な描画と比べると、もはやこれ以上の完成度はないと言ってもいいほどの域にまで到達しており、映像の細部ひとつひとつにまで目を奪われたと言っても過言ではない。
 結末部分は他の作品同様、無理やりハッピー・エンディングに持っていこうとしているために凡庸なものになってしまっているのだが、それでもアニメ作家としての宮崎駿は、この作品でそのキャリアの到達点を画したと言っていいだろう(ただし「崖の上のポニョ」は未見のまま)。
 この作品の舞台である「油屋」が売春なども行う「湯屋」であり、主人公の千尋(千)を含めて、そうした「裏の稼業」を描いたものだというような話を得意気にする人がいるのだが、湯屋=風俗産業であるのが事実だとして、それがこの作品の核心を成しているとは私には思えないし、まるで鬼の首でも取ったようにそのことを騒ぎ立てるのは見苦しいとしか思えない(いわゆる識者や評論家がそうしたことにあえて(?)触れないことに疑義を抱くこと自体は理解できなくもないのだが→後日以下の動画を見て、上記の考えを見直すことになった。下記の「もののけ姫」における日本の中世における白拍子の存在ともからめて、聖性と汚辱の対立あるいは転化などの観点から、「油屋」=「湯屋」という指摘には重要な意味があると言えるだろう。https://www.youtube.com/watch?v=g9vf1p_MHes)。


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・「もののけ姫」(宮崎駿監督) 3.5点(IMDb 8.4) 日本版DVD
 アニメーション映画としての完成度は「千と千尋に神隠し」には及ばないが、911テロや311の地震や津波を知っている人間にとっては、この作品が極めて予言的なメッセージを持ち、時代を先取りしていたことを今更ながらに痛感しないではいられない(この作品は911や311よりも前の1997年の作品である)。作品の持つ深度や重要性という意味では、おそらく宮崎駿作品のなかでも随一のものだと言って良く、その意味では上の3.5点という点数には大した意味はない(従って4.5点でも、あるいは満点の5点でもいいかも知れない。もっとも「5点満点」とは言いつつも、私にとって実質的な満点は4.5点であって、おそらく5点満点をつけるような完璧な作品などこの世には存在しないのだが)。
 この作品はおそらく時代とともに成長していく類いの作品であり、このなかで語られている宮崎駿の思想や世界観は、作者の思惑すら超えて、時間の経過とともに進化・深化し、広がりを持っていくに違いない。正直初見の時にはこの作品のそこまでの深度や予見性(言うまでもなく予見性とは物事の本質を鋭く見抜いている謂に他ならない)を読み取ることはまったく出来なかった。


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・「月曜日に乾杯!(原題:Lundi matin=月曜日の朝)」 オタール・イオセリアーニ監督 3.0点(IMDb 6.7) 日本版DVD
 上記の「赤い影」と同じく、ヴェニスが舞台になっているということで鑑賞してみた。
 次の「ここに幸あり」もそうだが、以前このブログでも感想を書いたジャック・タチやピエール・エテックス(彼は「ここの幸あり」に少しだけ出演している)などの流れをくんだ、かなりゆるめのコメディー作品である。物語自体あってないようなものであり、思い付きとしか思えないような展開がだらだらと続いていき、そうした流れに乗れない人にとっては極めて退屈な作品であるに違いない。正直私も途中で何度も退屈した口なのだが、しかし主人公のヴァンサンがヴェニスに旅立つことになるまでの、平板な繰り返しでしかない日常に対する違和感に満ちた描写には共感を覚えたものである。
 主人公であるこの中年男は、ある朝、勤め先の工場の入口まで行きながら、いつものように門の前で煙草を棄てるように言われ、突然なにもかもに嫌気がさし、その場を立ち去ってしまう。街をさまよった末、久々に訪ねていった父親は死の床にあり、叔母たちがその死を待ちわびて静かに腰掛けている。叔母たちの裏をかくためにも元気になってくれと言うヴァンサンの言葉に父親は突然恢復し(もっともその後どうなったのかはこの作品では描かれないままである)、どこかに旅に出たいと言うヴァンサンに、自分の知り合いのいるヴェニスへ行くよう勧める。その言葉に従って彼は家族にも告げずそのままヴェニスへと旅立つのだが、会社勤めをしたことのある人間であれば、誰しもこの主人公のような現実逃避の衝動に駆られたことはあるに違いない(私などは毎朝通勤電車に揺られながら、そんなことばかり考えていたものである)。
 フランスらしいと言っていいのか、とにかくやたらと人々が煙草を吸い(しかし勤め先などでは喫煙を禁じられ、それに抵抗してこっそり煙草を吸おうとしてまた見つかるということを繰り返す)、酒を飲み、だらだらと時間を過ごす。その点において、現代の資本主義社会や「政治的正しさ」などへの批判的なメッセージを読み取ることも出来るかも知れないが、そこまで大上段に構えなくとも、(時として些細な)生の快楽や自由を追求するフランス的(?)なエピキュリアンを描いた肖像だと言ってもいいかも知れない。
 後半の舞台は上記の通りヴェニスなのだが、「赤い影」にしても「ヴェニスに死す」にしても(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502038409.htmlhttps://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502038429.html)、映画に出てくるヴェニスという都市は、なぜか実際のヴェニスに比べて薄汚れ、くすんだ色をし、古臭い中世の都市のようにしか見えないのが不思議でならない(もっとも「赤い影」や「ヴェニスに死す」は、むしろ表面的な綺麗さや色彩をあえて排しているのでもあるだろうが、しかし主人公が長らく夢見てきた旅行でヴェニスを訪れるデイヴィッド・リーンの「旅情(Summertime)」においても、うろ覚えではあるが、この都市がさほど美しく描かれていた記憶がないのである→後日ざっと見なおしてみたが、これは私の記憶違いで、さすが天下のデイヴィッド・リーンである、フィルムが古いため色がくすんでしまってはいるが、ヴェニスの街並みが実に美しく映しだされていた。初見のときもそうだったが、中年のキャサリン・ヘプバーンの姿が痛々しくて見ていられず、今回もヴェニスの風景を見ただけで映画を見通す気にはなれなかった)。 


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・「ここに幸あり(原題:Jardins en Automne=秋の庭)」 オタール・イオセリアーニ監督 3.5点(IMDb 6.5) 日本版DVD
 「月曜日に乾杯!」以上にだらだらと思い付きのような場面が展開していく作品なのだが、どうした訳か最後に至ってそうした流れに身をゆだねることが愉悦へと転じていくのである。それはある日突然失職して地位も家も失いながらも、かつての友人たちや離婚した妻、恋人たちなどと再会し、時を過ごすことで、ごくささいな喜びを見出す主人公に、どこかで自分の生を重ねあわせているからかも知れない。シューベルトの「楽興の時(Moments Musicaux)」が映画のところどころで流れるのだが、元々は「音楽の瞬間」という原題をいみじくも「楽興の時」と訳したこの日本語のタイトルが、この映画のほのぼのとした雰囲気と相俟って、愉悦のひとときをもたらしてくれるようである。
 上記のピエール・エテックス以外にも名優ミシェル・ピコリが老女役で登場したり、監督自身も飲んだくれの画家として出演しており、祝祭のような雰囲気が全篇に漂う異色コメディである。