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 2010年5月31日(月)
 以前、ロンドンでザ・ビートルズの音楽を聴きながら彼らにゆかりのある場所を歩くことの至福を語ったことがあるが、今回私は小型PCに映画「ヴェニスに死す」をダウンロードして携行し、映画の主要な舞台となったヴェネツィアから程近いリド島(Lido)に赴いた。生憎いまは改装中で門を固く閉ざしてひっそりとしているホテル「Hôtel des Bains」から大通りを挟んで広がるプライヴェート・ビーチ(ただし特に囲いなどはなく、一般の海水浴場にもつながっていて自由に出入りできる)に身を置きながら、ダーク・ボガード演ずる作曲家グスタフ・フォン・アッシェンバッハ(よく知られているが、グスタフ・マーラーがモデルだと言われている)がリドで偶然出会った美少年タッジオに魅せられ、ホテル専用の海水浴場でその姿を追いまわす場面などを再生し、ヴィスコンティの世界と現実の風景とを重ね合わせる愉悦に浸ることが出来た。


 この映画はトーマス・マンの原作によりながらも、ヴィスコンティが同性愛(両性愛)者であった自らを主人公に重ね合わせ、老境に差し掛かった作曲家が「美」の具現たる美少年に激しい憧れにも似た思いを抱く過程を、マーラーの交響曲第5番アダージェットをしつこいばかりに反復しながら描いた一篇の抒情詩である(撮影も息を呑むほどに美しい)。

 正直言って少年愛にも同性愛にも個人的には全く共感するところがないのではあるが、異郷で出会った美少年に魅せられつつも、最後までその思いをはっきりとは告げることもないまま、街に蔓延するコレラに少年とその家族が罹ることのないよう願いながら自らその病気にかかって呆気なく死んでしまう主人公の姿に、イタリア有数の貴族の末裔として生れたことで得た莫大な富と豊かな教養・経験を元手とし、窮極的な「美」を我儘と贅とを尽くして徹底的に追求しながらも、「絶対美」とでも言うべき理想の高みには遂に到達できぬかも知れぬという深い諦観から決して自由ではなかっただろう芸術家ヴィスコンティの自画像を見るようで、この映画のことを思い返すたびに美や芸術というものに真剣に対峙することの厳しさと残酷とを見る思いがしてならない。

 もう一つ、主人公が映画の冒頭で雇うこの地の名物ゴンドラにも一度は乗ってみたいと思いツアーに参加してみた。普通の観光では余り行くことのない「知られざるヴェネツィア」を見て歩き、最後にゴンドラに乗って複雑に入り組んだこの街を、徒歩(目線)ではなくゴンドラに乗って水路を経巡ることで一段低い視線からも辿ってみるという内容のものである。ガイドの言語は英語を始め仏語やスペイン語など幾つかから選べるが、英語が通ずることを良いことに横柄な態度で世界各地を観光して回るため評判の甚だ悪い英米系観光客と一緒になりたくないというだけの理由から、あえて私は仏語のツアーに参加することにした。


 大して実用に供さなくとも、日本語以外の言語を多少なりとも理解できることの利点の一つは、海外の観光地で日本人と同じツアーに参加しなくて済むことである。今回も街はずれのちいさく洒落た(そして比較的安そうな)レストランを見つけて外に掲げられたメニューを眺めていると、いきなり「此処や此処や。そうやろ?」といったような言葉がいきなり耳に飛び込んできて一気に興醒めし、すぐにその場を立ち去ったことが何度となくあった(別に関西弁や関西に住む人々に偏見がある訳ではなく、あくまで一例に過ぎないので悪しからず)。
 そして英語以外の外国語を多少なりとも理解できることの利点は、上記の通り英米系の観光客と同じツアーに参加しないで済むことである。むろん同じ人間であるからにはどこの国の人間も似たり寄ったりで、横柄な人間もいればそうでない人間もいるということは自明の理なのだが、せっかく時間と金とを費やしてやって来た異郷の地で、聞き慣れた日本語や耳障りなアメリカ式の英語を聞かされるのでは全くもって堪らない。


(と、この文章はいま帰りの飛行機の中で書いているのだが、気流の関係からか単にパイロットの腕が悪いからか、離陸してから絶えず機体が大きく揺れ続けていて書くことに集中できないこともあって、いささか過激な=偏見に満ちたことを書いてしまったかも知れないが、そうした精神状態こそ私の真実の姿であるかも知れぬので、あえてそのまま残しておくことにする。)


 英語であれ仏語であれ私の理解力などは高の知れたもので、いずれにしてもガイドの言うことなどほとんど聴き取れはしないのであるから、耳障りな言葉を耳にしないだけでも大きな違いというものである。幸いなことに今回の仏語ツアー参加者は、私の他は去年結婚したばかりだという初老の夫婦1組だけで、ヴェネツィア出身でパリにも6年住んでいたという女性ガイドと合わせて計4人の静かな道中だった。

 ガイドの話す仏語は、多少イタリア語風に訛ってはいたもののかえって私には理解しやすく、むしろたまに話しかけてくる Lille(リール)から来た初老の紳士の、もごもごと口ごもるような話し言葉の方はサッパリだった。それでも彼らが新婚旅行としてヴェネツィアに来たこと、私と同じく昨日当地に着いて明日此処を発つことなどの基本的情報は何とか得ることが出来た。


 果してツアーの内容が知られざるヴェネツィアと謳う程のものであったかは疑問だが、かつての courtisanes(バルザックの作品名にもある通り、日本語では「(高級)娼婦」となってしまう言葉だが、ガイドの言葉を用いるならば「ゲイシャみたいなもの」であり、韓国の妓生(キーセン)などのように伎芸に通じ教養もある女性たちだった)についてのなかなかに興味深い話もあり、ゴンドラ・ツアーの前段としては決して悪くなかった。ガイドは始終ユーモアを交えながら少々艶っぽい話も交えてくれ、年老いているとは言え新婚のフランス人2人と、風采の上がらない中年日本人1人という奇妙な組合せであっても全く退屈することはなかった。
 ガイドによればかつてのヴェネツィアは極めて組織的かつ厳格な管理社会であったが、同時に自由度(融通の良さ)もあり、どんな職業の人間であっても当局に登録・管理されはしたが、それはすなわちどんな人間にも「所属」すべき場所があったということだったと言う。だが、当時もどこにも所属できない人間たち、例えば職を持たず街をさまようしかない浮浪者なども数多く存在した筈であり、彼らがどういう登録・管理下に置かれ、如何なる場所に所属していたのかを考えると、この言葉をそのまま鵜呑みにすることは出来ない。


 次いでゴンドラ・ツアーとなったのだが、これには漕ぎ手の他に最大6人まで乗れるそうで(ただし Grand Canal という名の島を二分する大きな水路を横切って渡してくれるだけの乗り合いゴンドラは、漕ぎ手が2人いて客も10人程度乗れた)、英語ツアーから3人が選ばれて我々と組み合されて無事出船となった(「アメリカ人と一緒になってしまうけど嫌じゃない?」とガイドに質問されたが、「あれは冗談ですよ」と言って済ませることにした)。
 ゴンドラの乗り心地は決して悪くなく、時々近くをボートや水上バスが通るとその波でかなり揺れはしたが、熟練した漕ぎ手のおかげで転覆したりすることはむろんなかった。漕ぎ手になるのに試験があるのは当然だが、2年間学校に通う必要もあるとのことだった。今、その学校に初の女性生徒が通っており、近々女性の漕ぎ手が誕生することになるかも知れないが、ゴンドラ漕ぎの世界はマッチョな世界なので反対意見も多いということだった。私は「彼らは misogynes(女性嫌い)なのですかね?」と冗談半分に訊いてみたが、すかさず「まさか!」という返答が戻ってきた。
 ゴンドラの漕ぎ手がカンツォーネを歌うのは本来的な慣習ではないが、どこかの国の人々(と言って彼女は私に微笑みかけ「特に日本人」だと言い足した)が希望するのでサービスとして歌うこともあるとのことだった。「そもそもヴェネツィアだというのに歌われるのは『オー・ソーレ・ミオ』や『サンタ・ルチア』などナポリのものばかり」と彼女は不服そうでもあった。


 ゴンドラ・ツアー最大の収穫は、途中でモーツァルトが住んでいたという家のすぐ下を通ったことだった。すぐに通り過ぎてしまったのでろくろく見ることが出来なかったため、ツアーが終るとあらかじめ当りをつけていた方角を目指して路地を進み、橋を幾つか渡ってなんとかその家に辿り着くことが出来た(行ったことがある人には分ると思うが、方角だけを目当てにある場所に行こうとしても道が入り組み、水路によって通りが隔てられたりしていて、なかなか簡単に到達することが出来ない)。
 ガイドの案内でオペラ座の歴史を知ることも出来たが、たまたま通ったある場所に掲げられていた案内で、作曲家のワグナーがヴェネツィアで死んだことを初めて知った。かつては由緒ある建物だったに違いないその場所は、今ではカジノ場になっていて(古いガイド・ブックには冬期だけカジノになると書いてあるが、今では完全にカジノとして運営されているようである)、水上バスの駅などにもワグナーの肖像画を用いた広告が貼られていた。ワグナーが賭け事好きだったかどうか私は寡聞にして知らぬのだが、もしそうであったならまだしも、賭け事などとは全く縁のない人だったとしたら、後世になって自分がカジノの宣伝に使われていることをどう思っただろうか。


 前回のローマ同様、今回も心残りな点がひとつ残った。映画「ヴェニスに死す」のなかで、病気のために朦朧とした主人公が(あるいはこの場面自体が白昼夢なのかも知れないが)、消毒のためかヴェネツィア本島のあちこちで物(衣服か?)が燃やされている中をさまよいながら、タッジオとその家族の幻影を見、最後には疲労のあまりヴェネツィアの大きな広場には必ずある貯水槽(もしくは雨水貯め。私は最後までこの citernes という単語の意味を取れなかった)にもたれて倒れてしまう幻想的場面のロケーション現場を特定できなかったことである。

 いつもながらに旅行前に一切下調べをしなかった上、どこでもインターネットが有料だったため、料金が惜しくなって旅行中も調べることが出来なかったのだ(家に戻って調べてみても結局未だに場所が特定できないままなので、たとえインターネットを使えたとしても無駄だったかも知れないが…)。


 しかしひとつくらい心残りがある方が、再訪した時の楽しみもあるというものである。ヴェネツィアという街は道が分りづらく(ガイドでさえ迷うことがあると言う)、階段や橋が多く、観光地であるために物価も高く(もっとも件の女性ガイドによれば、観光地域を除けば物価は他の大陸諸国などと比べると安いとのことだった)、スーパーマーケットなど普段の買い物をする店が街なかに余りないこと、特に冬期に高潮となり家々が浸水することがあるなど不便な点が多く、実際に住んでみたらかなり難渋しそうな場所である。
 それでもある時道に迷って静かな路地に入り込み、そこでラジオの音だけがかすかに聴えてくるだけの静けさの中に一人じっとたたずんでいると、現代の情報化社会から全く隔絶した昔日に立ち戻ってしまったかのような気分に捉われ、そのままそこにずっと留まりたいという思いに捉われた。

 その時私が感じたのは、観光地域ではなくそうした静謐で外界から遮断されたような路地の奥からなら、優れた芸術家や思想家が出て来ても少しも不思議ではないだろうということだった。あの場所でならば、私でさえこのようなくだらぬ雑文ではなく、より優れた文章を書くことが出来るかも知れぬとも--。


 もっとも私の知っているヴェネツィア出身の有名人と言えば、空港の名前にも冠されているマルコ・ポーロと、数多い女性遍歴で有名な漁色家カサノヴァくらいしかいないのではあるが…(後で気付いたのだが、モーツァルトのプレートに記載されている通り、ヴェネツィアは作曲家ヴィヴァルディや劇作家ゴルドーニの生地でもあった)。