こんにちわ ゆうじです。

 

前回の「音に耳を澄ますめい想

 

実は、最初の動画を聞かないと、なかなか難しいと思うかもしれない。

最初の動画を聞くと、それが記憶に残るので簡単かもしれない。

というのは、時計の音としても、どんな時計の音かは知らない状態なので、脳内で過去に聞いた時計の音の照合が行われるわけです。

先に記憶している音との照合ではないということ。

だから、聞かない方が、知覚者と解釈者の感覚は掴めるかもしれない。

別に非物質であろうが現実の世界であろうが、知覚者と解釈者の話は、成立します。


この意識的に音を聞いている間、同時に無意識化で、全感覚の収集処理と記憶のプロセスは行われているはずです。

パソコンで云う、バックグラウンド(背景)プロセス、背景で勝手に動いている処理のように、そして

おそらく、意識的というか、自分個人の意識の記憶は、違う部位、違うプロセスとして、

デスクトップ上で意識という操作者に従う形。AIのような自動学習型なら成長もありうる。

おっと、話が発散してきたので、戻ります。

 

音を聞き分ける瞬間に発生することを考えてみる。

(1)器官としての耳が音を聞く

※音の感覚に意識を向ける

(2)脳が音を認識する

(3)記憶の音を検索し、一致する音かを照合し判定する

例えば、波の音が、記憶担当の海馬の中にある音のパターンと一致するかを判断する前頭前野(たぶん)とかで判断してるんじゃなかろうか?

ここで、過去の波の音と一緒にひょいと過去の同じときの記憶が芋づる式に出てくることがある。この時の記憶をたどってしまうと、いわゆる思考のループが始まってしまう。検索のプロセスに同期したプログラムが勝手に起動したようなものかもしれない。

意識である操作者が権限を持っていれば、感覚に意識を向けることで思考プロセスを強制終了できるが、意識が思考と一体化していると権限を失ったかのような状態になってしまう。

 

プログラムの世界では、このプロセスの終了管理をどうするか?

何か他のプロセスのイベントを利用して、自動的にプロセスを止めるように設定をするだろう。

他には時間設定で終了。他には、電源オフという手もありますが(笑)

しかも肉体には用意された便利なツールとして呼吸があります。

呼吸は意識的にも、無意識的にも行われるプロセスですので、これに設定しておくのが良いのでしょう。呼吸というものは、感覚器官にも影響を与えることで割り込みやすい。

 

あと、次のタスク(やるべき事)があると、次のプロセスに向きやすいですかね。

 

仏教的に云うと、上の(1)(2)(3)はそれぞれ、下記の耳根、耳境、耳識になるのでしょうかね。

原始仏教の瞑想法の感覚の定義

 

ではでは、このへんで