こんにちわ ゆうじです。

 

森井さんの「精解 神の詩 聖典バガヴァッド・ギーター」は、いろいろ難易度高いのだが、「君が代から神が代へ」の方は読みやすかった。

(自分もバガヴァッド・ギーターは1巻で、長い中断した(笑))

 

「君が代」の話もあるということで、若干国家神道よりかと警戒したが、そういう意図や臭いはなく、お薦めです。

実際、「君が代」の話は、言霊、音霊による解釈ですし、上巻の序章で終わっており、その後は釈迦大師の出家の動機 として語られる「四門出遊」の、「老、病、死、生」をテーマにしていくつかの聖典の解釈をしながら語られています。

 

 

 

 

「君が代」は、自身の中の光に気づき、自身の光に気づく段階から、自身が光と合一し、解脱へと至る状態の説明をされており、

「君が代」の話の途中でふたたび聖書の解説をされています。

 

以下、青字は、森井啓二. 君が代から神が代へ 上巻から引用

 

旧約聖書のアダムとイブの導入部分の比較的理解しやすい一面を例にして、ご一緒に読み解いてみましょう。

神は、アダムの住むエデンの園に、実の成る木々を創造し、あらゆる種類の木がありました。 そしてエデンの園の中央には、2本の木を創りました。1本は生命の木、1本は善悪を知る知識の木。 神は「この園にある全ての樹の実を食べても良いが、園の中央に植わっている、善悪の知識の木の実だけは決して食べてはならない。その実を食べると死ぬであろう」と言いました。

 

命の木の実は食べていいけれど、善悪の知識の木の実は食べてはいけない。神が言った「その実を食べたら死ぬであろう」というのは、実は霊的な死を意味しています。 魂の活動は、神の創造した宇宙の摂理と調和しているのですが、「知識の実を食べて」人の魂が自分の能力に対する興味を徐々に強めていくことにより、自ら神の意志から逸脱するようになってしまう、すなわち霊性・神性を失っていくことを象徴しているのです。

 

何故でしょうか?

 

それは、知識が、「一なるもの」から分離させる道具となるからです。知識は、存在そのものを主客分離させます。

善悪の知識の「善悪」は、地上世界における二元性の象徴として使われています。

 

善 と 悪   光 と 闇     愛 と 憎悪   生 と 死   過去 と 未来     

 

すべて の 二元 性 は、 真理 に 根差し た もの では なく 自我 の 歪み で 形成 さ れ た 幻影 です。 例えば、 愛 の 最も 低い 表現 が 憎悪 で あり、 光 の 不在 が 闇 で あり、 生 と 死 は 魂 の 表現 形態 の 移行 で あり、 一見 両極 に 見え て 対立 する もの で あっ ても、 本質的 には 一つ です。

森井啓二. 君が代から神が代へ 上巻 (p.42). Kindle 版.

 

私が確認した範囲では、聖書には善悪を知る木の実とまでは書かれてあるが、「知識の実」とまでは書かれていないようです。

知識は偏見に囚われているとしている前提に、「知識の実」としたのは森井さんの解釈によるものでしょう。

科学的な知識を含め、分解分類し数値化したものはあくまで全体の一部を見た解釈に過ぎないのかもしれません。

全体から遠ざかり、恣意的なものを含めそれが偏見や誤認識を生んでしまう土壌になってしまう。

 

二元性についての解釈もそのいる視点によっては、変わるものかもしれないということを知っているだけでもいろんな見方ができるかもしれませんね。

 

  命 の 木の実 は、 無意識 領域 の 栄養 となり ます。 知識 の 木の実 は、 顕在 意識 領域 の 栄養 となり ます。 智慧 の 木の実 は、 高 次元 に とどまり、 地上 には 下り て き ませ ん が、 普遍 意識 領域 の 栄養 になり ます。

「知識の実」は、高い次元の智慧に昇華するための道具であり、「命 の 木の実」と「智慧の木の実」と意識領域との関係性を語る上で分かりやすくしたかったのでしょう。栄養という所が、グルジェフ臭い気も少ししましたけど(笑)

 

ではでは、このへんで