こんにちわ ゆうじです。
投資の話をしているの中で、自分も安易に使っておりますが、自己責任という言葉は欺瞞に満ちたものかもしれません。
この言葉も便利なんですよ。
自己責任論は、責任を取りたくない人の言い訳が根っこにある感じがして日本固有な気がしてた。
そういや、確かに、金融不安の頃から使われだした。
キリスト教の解釈部分は、すっ飛ばして、ご一読ください。
以下、読みやすくして見た。
まず「自己責任」が声高に言われ始めたのが金融業界でした。金融自由化で銀行をはじめ金融機関はさまざまな商品を扱えるようになります。そしてリテール部門、つまり個人顧客の開拓に力点が置かれるようになりました。
要は、顧客が購入した金融商品が元本割れをした際、その責任を誰が取るのかという問題です。当時、金融機関はバブル処理がまだ完全に終わっていないところもあり、決して安定している状況ではありませんでした。
リテール部門での責任をいちいち追及されたらたまったものではありません。先手を打って自己責任という言葉を出してきたと思われます。
商品にリスクがあることを自分たちはしっかりと説明する責任を果たす。購入する方はその説明を聞いたうえで、自分で判断する。だから結果に対しては「自己責任」を取らなければいけないという論理でした。
一見、至極当然のようにも聞こえるところがミソなのです。しかし、言葉の意味をしっかりと吟味したら、この「自己責任論」がおかしいことがわかります。
まず、彼らの言う「自己責任」とは、英語で言うところの「own risk」です。すなわち「危険の負担」であって、責任の概念とは違うものです。own riskとは「自分で利益を求めようとして自分で決定した場合には、予期せぬ不利益(リスク)も併せて背負わなければいけない」という考え方です。
これは、株式投資などで資本を調達する資本主義の大前提であり、改めて自己責任などという、いかめしい言葉を出す必要などありません。「商品購入の際はリスクも併せて負担しましょう」ということでいいのです。
本来、リスクは自分で取るという言葉の解釈で、リスクを責任という言葉にすり替えた。
この不自然な言葉である「自己責任」が、やたらと使われた場面がもう1つありました。それが非正規雇用の拡大の場面です。
そのときにしきりに論じられたのが「自己責任」という言葉です。彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされました。あるいは正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だというものでした。
「自己責任」はいつしか「自助努力」とパラレルで語られるようになりました。いかにも新自由主義的な発想だと考えますが、ここにこの問題のすり替えがあります。
そもそも「責任」という概念は「自由」という概念とはつながっていますが、「努力の有無」とはまったく関係のない概念です。「努力しなかったことの責任が問われる」としたら、それはいったいどういう社会なのでしょう? もちろん「努力しなかった結果はしっかりと受け入れなければならない」という道義的な理屈は成り立っても、そこに「責任」が生じるという理屈は、あまりにも飛躍があります。
新自由主義的な競争社会においては、まさにそのような考え方がフィットするのだと思いますが、本質をはき違えた論理だと思います。努力は本人が自主的、主体的にするものであって、第三者が努力しろと強制する権利は本来どこにもありませんし、努力しなければいけないという義務など存在しないのです。当然そこに責任など生じるものではありません。
「責任」は「自由」と表裏だとしたら、雇用者と被雇用者ではどちらの自由度が高いでしょうか?自由と責任は表裏一体だとするならば、自由度の高い雇用者のほうがより責任が大きくなるということは当然の帰結です。
そう考えるならば、正規雇用と非正規雇用の二極化によって起きるさまざまな出来事に対して、本来責任を持つべきは雇用者であり、資本家の側だという結論になるはずです。
私は、非正規雇用者に向けられた「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならないと考えます。むしろ「自己責任」を追及されるべきは雇用者側ではないでしょうか?
流動性が高く、いつでも辞めさせることができる安い労働力を必要としていたのは、雇用者のほうです。自分たちの都合で仕組みを変えておきながら、その責任を被雇用者に押し付けるというのは、二重の意味で厚かましい。それこそ「下品」なやり方です。
ことほどさように、世の中は下品力あふれる人たちの厚かましい論理が、あたかも正論のようにマスメディアに乗って流布されるのです。この転倒した世の中で、下品になりきれない多くの人たちが、心を折り、心を病んでしまっています。
ですが、世の中の構造やカラクリを解きほぐし、その欺瞞や嘘を知ることで、少しは心が軽くなるのではないでしょうか?少なくとも自己責任論のようなめちゃくちゃなロジックに振り回される必要などないということが、わかっていただけると思います。
最後にある強烈な皮肉は、削りました。分断された状況を嘲笑しているようにも感じられましたので。
それでも、こういう論理や視点があることは知っておいた方が良いものです。
呆れたことに公である行政のトップが自助努力を云いだしてます。
公が助ける努力をするが、共に助けあう世の中にしましょう。とは、明らかに順番が違うのです。
努力は、自分の意思でするもので強いられるものではないはずです。ただし、仕事の上での義務や努力すべきことはあります。
政府のトップがするべきことを考えると、それ云っちゃいますか?という気になります。
その上で誰かの責任にしたいのでしょうか?誰かのせいにしたいのでしょうか?
誰かのせいだと云いあっている間は、ただ、場が荒れ消耗するだけで、解決に繋がることが少ないと思いませんか?
ではでは、このへんで
