こんにちわ ゆうじです。
共有可能な答え、具体的な観察や記録に基づく合理的な推論が出来る範囲を超えて、際限のない推論をしてしまう純粋理性が暴走してしまうと答えの出ない問いまで行ってしまう。
これって、解釈者の暴走と似てますよね。雑念を除いて思考を続けると、カントの云う処の純粋理性と同等になるのかしらん?
妄想ですが(笑)
推論と判断の無限ループは、ろくでもないことしか考えないのでしょうか?
NHK 100分 de 名著 カント『純粋理性批判』 2020年 6月 [雑誌] (NHKテキスト)
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472円
(青字はちょっとつまみ食い的に若干要約して引用しています。)
ここで、カント先生ではなくこの本の著者西先生が「不死なる魂」から連想したのは「自分探し」です。
現在の自分は、「本当の私」ではない。どこかにいる「本当の私」になれれば、もっと充実して生きられるはず...
でも、なぜ「本当の私」が欲しくなるのか?
私が存在している理由、つまり「使命」が与えられれば、何を目指して良いかが解ると、思えるからでしょう。
西先生の結論は、「本当の私」を求めるのではなく、「どんなことに私は喜びを覚えるか」を自分に問い、そこから生きる方向を見つけていくニーチェ先生の示唆するものです。
ニーチェ先生のそのままは受け入れるのは、抵抗がありますが、その前にというか、それよりもという所は同意できます。
証明できない事解らない事、謎の解明よりもやることやれというか、今必要なことを自分に問い、やりなさいと云うのは、仏陀の「毒矢のたとえ」にもあるものです。ブッダも同じこと云ってます。「世界は永遠か?」「世界は有限か?」「霊魂と身体は同一か?」「如来は死後に存在するか?」が解らないと、修行を辞めて還俗すると言い出した弟子に語ったたとえ話です。そんなこと追いかけてると、答えを知る前に死んじゃうからねと云う話です。
これは原因の追究よりも、目的を果たせというアドラーの目的論にも共通しています。
アドラーの場合、目的はこんな感じでしょうか?
「どんな未来を作りたいのか?」
「大切にしていきたいものは何なのか?」
これは、これで対処としてはファイナルアンサーだと思うのですが、「本当の私」についての謎は、謎で持っていても良いと思うのです。
謎よりも大事なことはある。それは、それ。
そこから解ることもあるということかもです。
ただ、どう考えても単純な魂の連鎖は考えにくい。というか、私たちの継続する意識自体、とてもあやふやなものだとしか思えない。何より、私たちが解釈できる範囲は、限られているのでしょう。
では、謎解きは、またの機会に
ではでは、このへんで