こんにちわ ゆうじです。
禅の主人公の話は、も少し続きがありました。
「瑞巌の彦和尚、毎日自ら主人公と喚(よ) び、復た自ら応諾す。
乃ち (すなわち)云く、惺々著(せいせいじゃく)、(だく) 。
他時異日(たじいじつ)、人の瞞を受くること莫れ、(だくだく) 」
毎日、自分で「主人公、主人公?」と話しかけ、「はい。」と返事をして、
「しっかりと目覚め、本当の自分(真実の自己)を保っているか?」と問いかけ
「はい。」と、きりりと答え
「いつ何時も人に騙されないように」と問いかけると
「はいはい。」と答えるという流れです。
盤珪禅師が、主人公、主体的な自己を下記のように説明しています。
主体的な自己である主とは、すべてのものに束縛されず自由自在でいることをいいます。また、自在ということは、自ずから在るということで、力まず、自然に無心な己れ自身であることです。心に何もなければ、いつ、どこででも固くならずにいることができます。どうしても固くなるのは、心の中に何かがあるからです。
心の中に何の思いもないときは、自由自在ですから、どこへ行っても自分の家にいるのと同じです。どこへ行っても遠慮せずにおられます。お釈迦さまは「この世界はわが家だ」と悟られました。そして、世界の主人公になられたのですが、それが主体的な自己というものです。
これを見ると、一般に云う主体性と同じようではあり、囚われがない状態、エゴがない状態と云われても受け入れ安くはなるな。神道的に云うと、気がかりがない状態か?
ではでは、このへんで