こんにちわ ゆうじです。
 

荘子の話の続きです。

受け身な主人公の話です。

主人公と云っても、

それは、演劇の主人公の話でもなく、

さだまさし 主人公のように、

誰もが、人生の主人公という話でもなく、

荘子の話でもなく...あれ?

 

主人公というのは、禅書(公案集)「無門関」に出てくる瑞厳和尚が、毎日自分に

主人公、主人公目覚めているか?

と話しかけていたことに由来する禅の言葉です。

(主人格に、起きてるか?正気か?と話しかけるのは良いね。逆に、エゴのない存在としてのハイヤーセルフに話しかけるのも良いかもね。)

 

青字は、引用です)

ここでの主人公というのは、人の主体性を意味します。この「主体性」こそが荘子の最大の関心事としています。そして、玄侑宗久さんは、荘子は「受け身こそが最強の主体性」としたと云います。

受け身というのも云い方次第ですが、完全に受け身に徹した時こそ、逆説的に人は主体的でありうると、禅との比較を用いながら読み解いています。ここで云う、受け身というのは受け入れることです。変化をすべて受け入れる柔軟さを持ってこそ、最も強い主体性を得られると。変化をすべて受け入れるには、あらゆる感情や判断、分別は邪魔になるので、そういうものを持たないことを薦めたわけです。(玄侑宗久さんも)そんなことが可能なのかと思ってしまいますが、実はこの考え方は禅に大きな影響を与えています。

 

今回は、こういう考え方捉え方もあるよというくらいで読んでください。個人的には、違和感がある。何かが引っかかるのか?大体、受け入れるというのは、受け身じゃなくて積極的な対応だよね。感情や分別を抜きにして受け入れることを、受け身の心で出来るわけない。とも思うのです。

 

自分の置かれた環境の中で自分を最大限に没入させることが出来る人、つまり、自分の意思などという人為を埋没させ、状況に完全に浸りきれる人=主体的な人格という意味です。

 

自分の意思という人為=エゴを埋没させて、状況に浸りきるなんて無理だろう。と個人的には思います。例えば、スポーツのゾーンに近い状態、夢中になっている状態と思えますが、これを継続というよりも状態化、もしくは任意にその状態になれるとしたら...「黒子のバスケ」のゾーン強制解放ですな。眼から雷光なんか出たりして(笑)

 

(以下、玄侑宗久さんの説)

仏教では、禅定が智慧を生み出すとされます。それは、「戒」「定」「慧」(三学)という三つの流れで、自分の生命エネルギーを一つの方向に向けるために「戒」(善を修めるための戒律)があり、その向かった先で「定」(禅定=三昧)に入り、その無我の状態、私というものが全くほどけてしまった状態になったときに、最も素晴らしい「慧」(智慧)が発揮できる―という理屈です。これと同じ考え方が、荘子においてもなされていたのです。

 

荘子の場合、「戒」にあたるものはないのですが、孔子の儒教、儒学がそれに代わる役割を果たしていたと云えるかもしれません。老荘自体、孔子へのアンチテーゼという感じがしてならないのですが、荘子は、孔子を否定していないようです。孔子のみ認めるという感じです。自分の寓話に、孔子やその弟子を登場させているのは、そういうこともあるのかと。儒教、儒学に足りないものを提示しているのではないかと。

 

前回?のマイケルローズさんの、愛を選択しましょうというのも「戒」を柔らかく表現されていると云えるかもしれません。「定」に当たるところは、セミナーでやってるんだろうと推察します。

 

受け身の話は、まだまだ続きがあるようです。整理できたら、また記事にしたいと思います。

私の違和感は解消されるのでしょうか?ここで読めておいた方が良いのかしら?

 

ではでは、このへんで