こんにちわ ゆうじです。


玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんを良く知っているわけでもなく、だいぶ前にテレビとかに出てて記憶に残っておりました。

禅をやってる人で、本を書いてるくらいは知ってました。頭良すぎて、話が良く解らんと思っておりました。

ただ、先日のリンクを読んで、印象が変わりました。

 

そういえば、一冊積まれていたなと思い出し、ななめ読みしています。

 

 

「胡蝶の夢」や、「塞翁が馬」「渾沌」の話の荘子であります。

自分もなんとなく面白い話が多いから好きくらいの印象でしたが、玄侑宗久さんによると言葉というものには私たちの主観が入るもので、言葉そのものが議論や論争の種と捉え、寓話として語ることで言葉の持つ欠陥を最小限にしようとした表現方法であるようです。これを寓言と云い、重言、已言とともに表現の態度としたそうです。

 

買った動機は、この漫画の主人公が、荘子の孫だったからです。

 

ちなみに、達人伝はキングダムの前段の話です。最新作あたりでは、キングダムの最初のころまで来ているかな。呂不韋も若い商人から描かれ、始皇帝となる政が生まれるのが14巻あたりかな?荘子の孫の荘丹が、大呼吸と大法螺を武器に達人たちを惹き込んでいくという話。老荘思想の荘子というより、道教の祖の孫としての色が強い。

 

一応、ウィキ君を載せておく

荘子(そうし、Zhuang Zhou、紀元前369年頃 - 紀元前286年頃)は、中国戦国時代の宋の蒙(現在の河南省商丘市民権県)に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である。姓は荘、名は周。字は子休とされるが、字についての確たる根拠に乏しい。曾子と区別するため「そうじ」と濁って読むのが中国文学、中国哲学関係者の習慣となっている。史記には、「魏の恵王、斉の宣王と同時代の人である」と記録されている。

 

荘子の没後、300年後、前漢と後漢の間位の時期に仏教の伝来がある訳ですが、荘子は座禅に近い「座忘」という言葉を残しています。孔子と弟子顔回を使って説明させている。儒教への皮肉なのかな?

 

(本では、下記太字が原文で書かれております。)

顔回が孔子に「仁義を忘れ、礼楽を忘れ、坐忘ができるようになった」と告げる。「坐忘とはいかなるものか」孔子が尋ねた。「肢体を堕り、聡明を斥け、形を離れ、知を去り、大通に同ず、これを坐忘という」 顔回が答えた。

「坐忘問答」を通して、孔門の仁義礼楽、つまり、人間的な営みを超える超越者の世界を説く。坐忘とは、居ながらにして一切の差別を忘れ去る境地。心身一切の束縛を脱却して、道と一体になった境地。

 

太字部分つまり坐忘のこと玄侑宗久さんは下記のように解釈しています。

 

手足や体の感覚もなくなり、耳や目からの感覚にも振り回されず、いわばこの肉体から離れ、知の働きからも無縁になって大きく全体に通じる力と一体になる。

 

例の寓話も、瞑想を前提にするならば、意味合いが変わってきます。それを、玄侑宗久さんが読み解いていますので、面白いんです。

 

荘子は、メソッド化したりノウハウを残すことに興味がなく、その境地からの思考を展開することを優先し、人々を導くことで自身の停滞を生むことを避けたというのが、玄侑宗久さんの説のようです。それだけ資料が残ってないんでしょう。

 

「渾沌」と感覚の話へ続くかな?

 

ではでは、このへんで