こんにちわ ゆうじです。

 

 

さて、原始仏教のスリランカのテーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老自身の体験を、第3章 死んだらどうなるか?の話の続きです。

前回はこちら。

最初に、この本をぱらぱら捲っていたら「満足感を食べる神々の次元」が目に飛び込んできた。

 

(以下青字は抜粋)

瞑想修行などをしていると、とても高い次元を体験することがありますが、そうした次元の生命体、神々のなかには、我々が満足感を得ている時のエネルギーの波動を食べて生きるものがあります。

彼らは、満足感を食べる見返りとして我々をいくらか手伝ってくれるようなこともします。

大変、わがままで自分勝手な生命体で、そんなには助けてくれないけれど、いるにはいるのです。満足感で生きている人からそういうエネルギーを受け取って、ちょっとだけ助けてくれるだけで、そうでない人は助けてあげません。

 

特定の感情を食べる生命体、意識体と云った方が良いのかも知れませんが、ブルースが話してくれたパフボールに似た存在やロバートモンローの、「ルーシュ」の話を想起させてくれるものだったからです。

ただ、どうしても、食べる存在としてしまうと、捕食者と捉え恐れの対象に考えていた自分がいたのにふと気づかされました。食べるという表現事態が、解釈の一つに過ぎないんですよね。人によっては単なるエネルギー交換に見えるものかもしれないのです。

 

それと、勝手でわがままな高次元の存在というのも、自分の神々に対する感じ方に似て同意できるところが多くあります。

 

「幸福な人はいつでも幸福だ」と言うことがありますが、それはそうなのです。とても幸福で、何をやっても成功する人々のところには、それを食料にしている生命が憑いています。


竜神とか神様を付ける類の引寄せ本みたいな話ですが、そういう話は一顧だにする価値のないものです。結果としてそうなるのは問題ないのですが、意図を持って招いたりコントロールしようとすると、大変、わがままで自分勝手な生命体ということを思い知らされるかもしれませんよ。あと、高次元だった存在を墜としめてしまうこともありえますしね。人も神も。

 

ではでは、このへんで つづく

 

こういうのは、人の体験を解釈するようなものではあるので、下品な行為ではあります。

(ワークショップとかでやっては基本駄目なやつです。複数の解釈を試みると云うのは、視点の獲得にも繋がりますが、練習は、自分の体験でやれば良い話です。)