こんにちわ ゆうじです。

 

自殺をしたら、反省部屋に行くとか云う話があるそうです。

一般論として、そういうことを云う方もいるようです。

そもそも論として、 じっぱひとからげ【十把一絡げ に括ってしまうと弊害が大きい。

 

自殺、自死された方の状況は、ケースバイケースでないかというのが点、

何処に居るかかという知覚をしたの人のフィルターがかかっているのではないかという点、

そこに行っているのは側面だけで、本体ではない可能性も考えられるという点、などなど

 

昔、ヘミシンクセミナーで、お互いに亡くなった方の名前を書いて、お互いにその人の所に会いに行ってもらう。

場合によってはリトリーバルしてもらうというのをやりました。

(対象の人物の説明なし。名前のみでの探索です。)

自死した友人を見に行ってもらったところ、山の暗い洞窟の中で隠れているようだったそうです。
そのまま、リトリーバルしてもらいました。

 

その人の場合は、一人で山に登って転落死でしたので、親や学校とも揉めてる状態だったので、一人でいてもおかしくない状況だと思う。

人に会いたくない精神状態だったんだとすれば、隠れるようにしていて不思議はない。

隠れるようにずっと暗い洞窟に居た彼。

 

そういう状況を、「自殺は、してはならない悪いこと」という信念を持っている人が見たとしたら?

対象の人が自殺された人だと知っていたら?

その人のいる場所が、反省部屋に見える確率は高いだろう。

 

そもそも一体、何を反省していると云うの?

その人の永遠に続くかもしれない孤独の中で、気づきのない状態にいるだけかもしれないのにね。

 

あと、もう一つこの状態にあるのは、死の瞬間に囚われた側面のみで、本体は行くべきところに行っていて、既に囚われていないかもしれないという可能性もある。

逆に、先入観があると、そちらとのコンタクトが難しいということも起こりえます。

 

坂本さんの本の中で、 「自殺した沙織さん」 で、そういう話も紹介されています。

うつ病による自死で、亡くなられた方ですが、リトリーバルの必要がなかった。

詳細はレビューにもある(笑)
会うことが難しいことをモンローが説明している部分は、レビューでは割愛されています。

 

 

 

ではでは、このへんで