こんにちわ ゆうじです。
Heleneさんが、以前瞑想について、こういうことを書いていて、ブルースも肯定していたのを聞いて、へーそうなんだ。とその時は、ちょっと不思議に思った。
最近、あれこれ調べ物をしているうちに見つけたのだが、死後探索マニュアルp455にそのことについて、ブルースのコメントがあった。ブルース的には、雑念を消していって解釈者を無くした状態となることでクリックアウトを意図的に行う=無の境地という観点でコメントしている。その効用も示唆しつつ、そういう信念の方への皮肉たっぷりだが、それはそれで、かなり面白いことを云っている。
リブログ読んでいただくと分かるのだが、要は瞑想といっても、下記のような雑念を相手にしない、雑念は要らないもので、無念無想を目指すのだ的なものはそうだということです。誘導瞑想のように、なにかを想像しながら行う類のものではない。
①呼吸にこだわりすぎる
②頭の中を空っぽにしてしまう。思考をとめてしまう。イマジネーションできない。頭の中に思い浮かぶものを膨らませることができない。
仏教系の瞑想、特に、座禅がそう思われがちだけど、座禅でも曹洞宗と臨済宗でも、やり方はかなり違うと思われる。 白隠禅師の軟蘇の法とかあるので、イメージを使う瞑想もあって、それを否定してはいないはず。本当は、いろんな瞑想法をやって、バランスとった方が良いんだろうね。
下記の記事に、「内観の秘法」と「軟酥の法」をちょっと難しい風に書いてあり、文体は固く古い言葉が多いのでとっつきにくいが、きれいに要約されていて素晴らしい。
言葉のイメージ喚起力を利用した身心調整法が「内観の秘法」だとすれば、「軟酥の法」は純粋に映像的イマジネーションを用いる内観法といえるだろうか。いや、視覚だけでなく、熟練してくると味覚や嗅覚も関係してくる。
気功やヨガでもイメージを使うものが多々あって、神道系でもイメージがセットになってたりする。
ヘミシンクでも、雑念について「ヘミシンクの準備のプロセス」で使うエネルギー変換ボックスというものがある。セッションを始める前に、雑念となるような不要な思いを入れなさいと云われるものだが、セッション中にも使う人がいるのだが、まあ明らかに仕事のことなら構わないんだけど、浮かんだもの全てを入れてたら、体験できるわけがない。トレーナーの方で、今はセッション中はほとんど使わないで、メンタルツールの掃除機を、エネルギー変換ボックスにつないで(もしくは、掃除機=エネルギー変換ボックス)として、体のチャクラの掃除を行ってるという方もいた。
雑念と思っていても、それは知覚者が拾ってきた大事な何かかもしれないから、全部捨てると解釈者機能停止して、なにも拾えなくなる。
今日は、このへんで
