今朝、なぜかふと思い出したことがあります。

10年間「普通の弁護士」として、それなりの数の刑事事件を受けたときに感じた「知ること」についてです。


刑事事件を受けた弁護士として、逮捕されて外に出られない本人に代わり、本人の謝罪の気持ちを、被害者やご家族にお伝えすることがよくありました。

毎回、私にとって辛く厳しい経験でした。

そもそも会うのを拒否されることもありましたし、お会いした上で本人への厳しい言葉を言われることもありました。
もちろん当然のことだと思いましたから、わたしから「赦してあげてください」と言った記憶はありません。


その中で、被害者の方が本人のことを赦す場面に遭遇したことが、稀にですがありました。

その時も、対面した直後は「絶対に赦さない」と言われていました。

ところが、わたしから、本人の生い立ちや境遇、犯罪の動機、現在の本人の様子などをお伝えした後、最終的に(その日のこともあれば、しばらく後のこともありました)「赦す」と言われました。


犯罪や被害の大きさも影響したとは思いますが、いずれの場合も、お会いしたときは「絶対に赦さない」というお気持ちでした。

それが最終的に「赦す」と変わるまでに起きたのは、その方々が本人のことを「知った」ことでした。

そういう経験を何度かしたわたしは、「知ること」が「赦すこと」に繋がる可能性があるのかもしれないと思うようになりました。

もちろん全ての人、全てのことに当てはまることではないのでしょうが。



それからだいぶ時間が経ち、この数年で、わたしは、それまで知らなかったわたし自身を「知る」ようになりました。
そのことでわたしは大きく変化し、生きやすくなりました。
以前より自由になったと言っていいと思います。

この変化も、
わたしが、これまで否定し、見ないようにしてきた自分自身の性質を赦したからじゃないかなと思うのです。


「知ること」は「赦すこと」に、
そして「自由になること」に、
繋がるんじゃないか。

過去の記憶と、今の自分自身の実感から、その可能性について考えました。


ギベコ