想像と創造の毎日 -2ページ目

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。


  私よりも鳥や鹿や猫の方が周りをよく見ている。
  見る。という視覚を頼った感覚だけでなく、聴覚や嗅覚、または人間の五感以外の感覚を使って、常に周囲を警戒している。
  けれどもヒグマは、それらよりも鈍感なんじゃないかとも思う。
  小さく力の弱い動物の方が、警戒心が強くて常に逃げる算段だ。
  ヒグマは力の強さや爪や牙という強力な武器があるから、いい餌場があればそこに執着し続けることもできる。
  


  私が立ち止まるでじっと見つめていると、猫もそこから動かずにじっと私を見ている。

  私がそこから動けないように猫も動けない。

  相手は自分に被害を加える存在かどうか、互いに見極めているみたいだ。

  なぜなら私は、少し猫が怖い。

  昔、猫を飼ってる友達の家で、一緒に遊びに行った友達が不用意に近付いて、顔を引っかかれて血だらけになったのを見てからトラウマなのだ。

  私はそんなに動物が好きじゃないことが、被写体である彼らにはお見通しなのだと思う。

  だから、鹿も猫も狐も、私を警戒するのだ。

  でも、鳥だけは違う気がする。

  去年は外で炭の前で座っているときに小鳥にしばらくの間、頭の上に乗られた。

  職場の窓辺では、至近距離まで近付かれたときもある。

  ぴー様を飼っているからなのだろうか。

  


  恐怖心は、攻撃心と同等なのかもしれない、と思うことがある。


  恐ろしさが極まったとき。生き物はどうやっても逃げられないのなら、いちかばちかでも攻撃するしかない。


  互いの恐怖心が極まった時が戦いの合図だ。


  しかし、師匠のお気に入りの鉄砲の弟子は、そういうのがない、とやっぱり思う。

  銃の才能があると師匠が絶賛する彼は、どこか浮世離れしていて、感情があまり感じられない。

  愛想がなくて、媚びることもなければ、常識的な挨拶すらしない。普通は初対面なら、相手がどういう人なのか多少なりとも警戒しつつ、しかし敵意がないように振る舞うか、もしくは相手と自分がどちらが上か推し量ったりする人もいるが、彼は人間も動物も同じように扱う。


  彼は若い猟師の中でも、熊を撃つのが抜群に上手いらしいが、それは彼の天性の才能なんじゃないかと思える。

  

  師匠ですら恐ろしいと思う距離で、なんの躊躇いもなく二発も至近距離で弾を撃ち込んだとき、彼には恐怖心がなかったんじゃないかと思う。


  彼の目の前に現れた熊は、彼から恐怖心を感じなかった。

  攻撃体制に入る隙間もなく、撃たれたんじゃないか。


  生と死は、彼の中で同等なんじゃないだろうか。

  生に執着しないことが、逆に死を遠ざけるということもあるかもしれない。


  猫で間合いの練習をした。

  可愛がるでも、怖がるでもない。 

  無関心と関心のあいだ。

  

  ヒグマが警戒しない生き物。

  何の得もなく、何の被害も与えられない存在。

  

  見ているのだが、見ていない。

  死んでいるのと、生きてることの間にいるような彼の間合いを想像しつつ。