私が立ち止まるでじっと見つめていると、猫もそこから動かずにじっと私を見ている。
私がそこから動けないように猫も動けない。
相手は自分に被害を加える存在かどうか、互いに見極めているみたいだ。
なぜなら私は、少し猫が怖い。
昔、猫を飼ってる友達の家で、一緒に遊びに行った友達が不用意に近付いて、顔を引っかかれて血だらけになったのを見てからトラウマなのだ。
私はそんなに動物が好きじゃないことが、被写体である彼らにはお見通しなのだと思う。
だから、鹿も猫も狐も、私を警戒するのだ。
でも、鳥だけは違う気がする。
去年は外で炭の前で座っているときに小鳥にしばらくの間、頭の上に乗られた。
職場の窓辺では、至近距離まで近付かれたときもある。
ぴー様を飼っているからなのだろうか。
恐怖心は、攻撃心と同等なのかもしれない、と思うことがある。
恐ろしさが極まったとき。生き物はどうやっても逃げられないのなら、いちかばちかでも攻撃するしかない。
互いの恐怖心が極まった時が戦いの合図だ。
しかし、師匠のお気に入りの鉄砲の弟子は、そういうのがない、とやっぱり思う。
銃の才能があると師匠が絶賛する彼は、どこか浮世離れしていて、感情があまり感じられない。
愛想がなくて、媚びることもなければ、常識的な挨拶すらしない。普通は初対面なら、相手がどういう人なのか多少なりとも警戒しつつ、しかし敵意がないように振る舞うか、もしくは相手と自分がどちらが上か推し量ったりする人もいるが、彼は人間も動物も同じように扱う。
彼は若い猟師の中でも、熊を撃つのが抜群に上手いらしいが、それは彼の天性の才能なんじゃないかと思える。
師匠ですら恐ろしいと思う距離で、なんの躊躇いもなく二発も至近距離で弾を撃ち込んだとき、彼には恐怖心がなかったんじゃないかと思う。
彼の目の前に現れた熊は、彼から恐怖心を感じなかった。
攻撃体制に入る隙間もなく、撃たれたんじゃないか。
生と死は、彼の中で同等なんじゃないだろうか。
生に執着しないことが、逆に死を遠ざけるということもあるかもしれない。
猫で間合いの練習をした。
可愛がるでも、怖がるでもない。
無関心と関心のあいだ。
ヒグマが警戒しない生き物。
何の得もなく、何の被害も与えられない存在。
見ているのだが、見ていない。
死んでいるのと、生きてることの間にいるような彼の間合いを想像しつつ。

