いつの間にか、すっかり、秋です。
秋は、人の心をとりわけざわつかせるのでしょうか。
高齢の両親が、揃いも揃ってソワソワしている…というか、ちょっとしたことで呼び付けて、長々と話を聞かせるので、ちょっとだけ心が疲弊しているような気分になる。
息子も言葉にはしないが、何やら、いろいろあるようで中二病を発動しているっぽい。
なんでそんなことで病院に行くのか、亡くなった人のことをいつまで気にするのか、人と自分を比べすぎるな、嫉妬なんてしてもいいけどそこに囚われるな。
いろいろ言いたいけれども、言っても自分の中で経験して腑に落ちなければどうにもならないから、とりあえず、自分だけはそこに巻き込まれないように、自分のやるべきことをやることに意識を集中させる。
誰に何が起きても、私がコントロールできることはない。
ただ善悪の付けられない出来事が未来からやってきて、それを回避するのか、戦うのか、なんとなくやり過ごすのか。
それを選べるのは本人だけで、私は自分事でも、他人事でもない温度で、ただ信じて見守るしかないのだ。
録画していたあまちゃんをまた見た。
気に入ったものは、飽きずに何回も観る。
やっぱ、クドカン作品が私は大好きである。
押し付けがましくなく、人は誰もがどうしようもない。
あまちゃんは誰もがすごく幸せになるわけでもなく、むしろどうしようもないことが次々に起こる。
だけど、震災とかものすごく辛い部分はさらっと流し、むしろ、そこ?という部分で登場人物を泣かせたりする。
人は本当に辛い時は、泣くことすらできない。
泣けるときは、まだまだ余裕があるときで、本当に辛い時はむしろ、今に集中せざるを得なくなるのだろう。
それが、人間の本来持っている生きる力で、きっと周りはその力を信じることしかできないのだ。
劇中で、バカみてえなのを見せて、とアキちゃんがこのドラマのことを言う場面がある。
自分もクスサンのことばっかり書いて、バカみたいなものを見せている。
探せば無限に心配できることは見つけられるけど、でも、クスサンを見てると、なんだか勇気?が湧いてくる。
この子達に人間のような感情がないとしても、触ろうとすると威嚇して、目玉模様を見せつけるクスサンのオスが、言語の外で死にたくない!と本能的に感じているのは、確かだ。
だけど、食べることを拒絶し、生殖だけに特化した成虫には、個の未来がない。
その選択をした進化は、意志の及ばない領域にあるようにも思える。
自分がない。自我がない。
ならば、あらゆる生命の"生きる"ということは?
それは、目的や結果を自分の意思の外に委ねるということに他ならないのではないか。
よく高いゴールを設定してとか、今、この瞬間を味わってとか、まるで真逆な言葉がその辺に溢れていて、何が一番いいのか、わからなくなる。
そういう他人のそれらしい言葉ですら、選ぶのも選ばないのも自分次第だというところに、自由という希望と絶望、その両面がある。
「誰かの日常や言葉が、誰かの支えになる」
アメブロを作っている人達のこの言葉はとってもいい言葉だ。
自分のことではない些細な誰かの日常が、本人の意図しないところで支えになる。
それが、あらゆるSNSの中でも、アナログっぽいブログの良いところだと思う。
啓蒙でもなく、洗脳でもなく、宣伝でもなく、バカみてえな日常。
読み手が書き手の意図しない受け取り方をしても、それは自由。
自分と重ねたり、自分に言われてる訳でもないのにイライラしたり、羨ましくって嫉妬したり、勝手に同じだと共感したり、自分の方がマシだと安堵したり。
目も耳も前だけに付いていて、やってくることにしか意識が向かないようにできているような肉体のわけは?
直線上でしか時間軸を捉えられない言語で出来た進化の先にある生物たちの狭い領域を、補完するような単細胞の原始的な生き物たちを見ていると、自分を構成するひとつひとつの細胞が自分の意識の外で常に死を生を繰り返している懸命さが愛おしくなるのだ。
悩むことも苦しいことも、今を感じる遊びでしかない。
だから、存分に味わう。
噛んで、舌で転がして、喉越しを味わったのなら、飲み込む。
いらないものといるものを分けるのは、私の脳ではなく腸だ。
クドカン作品は、死をテーマにしていても、サラッと受け流す。
辻褄なんて合ってなくても、そこ、気になる?とでも言いたげに(クドカンは)堂々としている。
クドカンという作者の立ち位置は、創造の神ではなく、登場人物が勝手に巻き起こすストーリーだ。
だからほとんどの俳優さんは、いわゆるどんなキャラでも演じられるカメレオン俳優ではなく、毎回同じような性格であると思う。
「あなたは、女優に向いていない。
でも、天野アキをやらせたら、あんたの右に出る女優はいません。」
という鈴鹿ひろ美のセリフがあるけど、アキちゃん演じる能年玲奈ちゃんはそのままの女優人生を歩んでいる。
すっとぼけた、でも透明感のあるキャラで、演技の幅は狭いけれど、彼女の作品はどれも素晴らしい。(違うキャラのホットロードとかは…個人的には🤔)
最近では"幸せカナコの殺し屋生活"が最高に良かったが、声優として主演した"この世界の片隅に"は、この子しかできない、この子の声と抑揚のなさでしか、このキャラは演じられない!と思えるほど秀逸だった。
だから、だからさ!
別に何かに秀でていなくても、羨ましがられることはなくても、面白いとか、変だ!と感じる価値観は、その人にしかない唯一の個性だ。
くだらないことですぐに呼びつける親も、中二病の息子も、すぐ仕事辞めたいという娘も、それを私がめんどくせーと思いつつ、でも本当はわかる、と思うことも、全部がくだらなく、同時に大切なのだ。
そういう日常を面白く見せるクドカンは、人を愛する天才なのだと思う。
いや。愛してるっていうか、全部ひっくるめて、人って面白いよね?人は誰もが死ぬけど、それすらどうってことない。むしろ、こういう些細なことを生きてるうちに日常から見つけられてんか?おまえたちは!と視聴者を試してくる。
力が抜けるのに、気合いが入る。
その"あいだ"を生きていたいって思わせてくれる。
