主人公のちいかわは、我々文明社会に生きる大衆だ。仕事を与えられ、それなりにインフラの整った便利な環境に住み、その街にはテレビのような大きなスクリーンがあって、人々(?ちいかわ族の生き物)は、そこから新商品やらイベントなどの情報を得ている。
不器用で、寂しがり屋で、不安ですぐに泣き、でも努力家で、そんなに賢くはないんだけど、それを補うみたいに運がいい。
ちいかわといつも一緒にいるのはハチワレで、わりと賢く、それなりに器用で、ちいかわにいつも優しい。けれども普段はドアのない洞窟に住んでいて、貧乏である。
二人と仲がよいうさぎだが、私生活は謎に包まれている。
自由で破天荒で、運動神経も頭も良い天才肌だ。
媚びない、群れない、属さない。
好奇心の旺盛さで、二人をトラブルに巻き込むことも多々あるが、本当に困った時にはさりげなく助ける。
勇敢で、感情に左右されない。
二人がうさぎの謎に迫ろうと尾行する回では、うさぎは、DJのようなことをして、持ち前のリズム感で民衆を盛り上げる。
「あったんだね!こんな世界!」
と、ハチワレが感動するのだが、うさぎは誰よりも現実的でありながら、根本は俗世からはみ出したような聖なる世界の住人であることを窺わせる。
彼らの仕事中に"討伐"というキメラ化した怪異と呼ばれる化け物の退治があるのだが、うさぎは討伐のとき、敵に捕まっても眠れるというメンタルの強さがある。
ちいかわは大衆代表らしく、すごい!と言われたくて、二人を自分ひとりで守るために戦って失敗するし、ハチワレはその器用さと火事場の馬鹿力的な力で"なんとかなれー!"と敵を倒すのだが、うさぎは敵を敵と認識しているというよりも、遊びの延長のように対峙しているように見える。
つまりうさぎには、生と死の境目というものがなく、死を恐れていないように見えるのだ。
ここで唐突だが、うさぎを考察していると、"ある死刑囚の対話"中の死刑囚が著書の加賀乙彦との書簡のやり取りの中で、T・S・エリオットのことを何度も書いていたことを思い出して、エリオットの代表作である"荒地"という詩集について、Grok先生に尋ねてみた。
第一次世界大戦後に発表されたこの詩篇が、世間に衝撃を与えたのは、戦後ヨーロッパの精神的不毛、性的、文化的、宗教的荒廃を多言語、多文化を引用して難解に表現し、その幻滅、不安、徒労感が現代的な病として読まれたからだと教えてくれた。
SNSやAIなどの急速な普及で、既存の道徳観の危機に見舞われ、新しい倫理観の構築に右往左往する今の社会も正しく同じ状況であるが、そこに、それまでの価値に囚われず、ただ湧き上がる衝動に正直であり、自分と他者の区別が曖昧であるような"うさぎ"の存在に熱狂するのは、私だけではあるまい。
うさぎは、生命のエネルギーそのものである。
現に、ちいかわやハチワレが"草むしり"で生計を立てているのに対し、うさぎはどうやら"発電"の仕事をしているらしい。
発電の仕方も、ハムスターのようにただひたすらぐるぐると歯車の中を走り続けるという単純なものだが、ちいかわの世界のインフラをうさぎのような存在が支えているというのも、なかなか奥深いものがある。
(ちいかわもだが)うさぎが言葉を話さないというのも興味深い。
ハチワレは言葉を話すのだが、それでも話が通じるのは、宮台さん的に言えば言葉以前の世界で彼らが同じ世界でフュージョンしているからか。
うさぎが"天才"なのは、言外で生きているからでもあるのだろう。
ちいかわは、神話を踏襲した古くも新しい思想なのかもしれない。

