曇りではあるが、気温が10度以上上がる予報だったので、軽装で来てしまった。
風が強く、時折、ポツポツと雨が降る。
体感温度は5度ぐらいだったんじゃないか。
寒さのあまり、歩くだけでは体温が上がらず、軽くジョギングする体になる。
職業柄か、この公園は幼児が遊ぶのにいいね、とか、池の水深はどれぐらいあるかとか、どういう遊びが想定されるかとか、そういう話になってしまう。
危険をなるべく遠ざけようとする風習なのに、世の中は予測不可能な事態が多い。
そんな時代でも、子供たちを生きることを諦めることのない精魂逞しい人間に育てたいと思うのは、傲慢だろうか。
ラーメンを食べてから知らない街を少し散策していると、素敵なカフェや昔からありそうな懐かしい佇まいのお菓子屋さんや、美味しそうな天然酵母パン屋さんが目に入るので入りたくなってしまう。
さらに街の端っこまで歩き、身体を疲れさせたところで気になるお店に立ち寄る。
街の中心をながれる川にそって整えられた公園や、高台の上にある小さな集落、駅前のこじんまりした商店街。
街はどうやってできて、どんな歴史に支えられ、そして今、人々の生活をどのように支えているのか。このお店は、何を売りにしていて、どこにこだわっているのか。
小学生の社会科見学のようで面白い。
目的はラーメンと体力強化。
しかし過程は社会科見学である。
新しい場所は、自然にいろいろなところに目がいった。
なのに自分の住む街のことは、慣れ過ぎていいところも、悪いところもわからなくなっている。
メタ認知の低下は個人だけでなく、職場や街全体の単位でも起きていて、だから鏡のような外部の目が必要だ。
街にもエントロピーの法則は摘要されるのだろう。
やがて、死ぬ。そして、乱雑に。
覆水盆に返らず。
好奇心だけが、そこに抗う術だろうか。
文明の届かない山と、文明に支えられる街。
社会の対義語が、個人であるか自然であるかは文脈によって異なるが、私の遊びの範囲では自然だ。
自然は人の自由を制限したり、命の保障をしない分、社会よりもずっと過酷だ。
文明のありがたさを寒空の下から、ストーブの炎が赤々と燃えるカフェに入って、しみじみと感じ入る。
歩く速度で認識できる風景は、否が応でも私の居場所を確認させた。
私と自然との距離を程よく感じられる速度、andante。
私は、養老さんのおっしゃるように、地図の上の矢印に過ぎない。
人や社会を含む大きな意味での自然は、それぞれの持つほんの少しの意思と選択で、大きく動いているんだな。


