息子の彼女は、私と息子が羨ましいという。
お互いに遠慮し合わず、喧嘩ができるところだそうだ。
私は最近でこそ外では、なるべく冷静になろうと努められる方だと思うのだが、息子に対してはまだまだ感情的に反応する場面が多い。
自分に似ていると思うから期待値が大きく、そこから少しでも離れた態度を取られると裏切られた気持ちになってしまうからなんだろう。
それは私が息子のことを一人の違う人間として、尊重できていないという意味でもあるし、距離感の近い相手だからこそ、甘えているということでもある。
なので、まったく羨ましがらなくていいし、むしろ私が母親としても人間としても未熟な証なんだよ。と言うと、彼女は、私はお母さんとも妹とも、友達とですら、一度も喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。でも相手に不満がないわけじゃなくて、自分の言いたいことをどう言えばいいかわからないからなんだ、と言った。
私は彼女はよく気が利くし、相手の話をよく聞いて、その会話で一瞬にして相手の価値観を読んで、自分の発する言葉を選ぶことのできる賢く、慎重な子だと思っている。けれども、だからって気を使い過ぎ、遠慮し過ぎることもなく、相手が人に何かをすることが喜びであるタイプだと見抜いたならば、天真爛漫に甘えるという技すら持っていると感じる。
小心者で器が小さいくせにプライドだけは一人前の息子を理解して、上手く手のひらの上で転がしているように見える彼女だが、その彼女の配慮に思いっきり息子が甘えているように見えて、私は時々、腹が立つやら、申し訳ないような気持ちにもなる。
しかし彼女は、すぐに自分のことでいっぱいいっぱいになり、連絡が途絶える息子に寂しさを抱えていることも私は知っていた。
ほとんどの女は辛い時ほど、話を聞いて欲しくて、誰かにそばにいて欲しいと思うが、うちの息子のような男はそういうときほど一人でいたがる。
好きな彼女にこそ、弱い所を見せたくないのもあるけれど、単にシングルタスクしかできないから、信頼している彼女ほど放っておいてしまうのだ。
彼女のような自律しているように見えるタイプここ、そうなりがちだろう。
だから私は息子の心に余裕がありそうなときは、しっかりしているように見えるけど、ああいう子ほど、寂しいんだ。そんで、相手の気持ちを理解しようとするほど、その寂しさを隠そうとする。だから一人になりたいときはちゃんと、理由とか期間とか説明しなきゃダメなんだと伝えるのだが、それができるようになっているかはわからない。
慮る。ということを最近よく、考える。
職場でもそうだが、みな自分のことばかりで余裕がなく、少しでも注意されると、自分の存在価値すら失って、自分の存在を否定する人もかなり多い。
誰でも自分が必要とされることや、人より秀でている部分で、自分の価値を測ろうとすることはあるが、それを人に求めるとトラブルが生じた。
「山、楽しかったです!また行きたい!」
彼女は、後日、そうLINEを寄越した。
息子も登っているときは、飽きたり、疲れたりして、楽しそうでもなかったけれど、次の日になると、登山は質のいい睡眠が取れるな。とか、わかったような口を聞いていた(私こそ何様?笑)
そうなのである。
登山だけではなく、究極に疲れさせることは、身体だけではなく、心のデトックスにもなる。
汗は代謝を活発化させて、余計なもの排出する機能を強化させるが、心も同じように無駄なことを考える余裕をなくすことで、余計なものを取り除いて、余白が生まれるような気がする。
天気や登山道の草や虫や動物たちのことを、自分ではどうにもできないように、他人のこともどうすることもできない。
その変えられない環境を予測しながら、自分の行動を変えていくのが登山だ。
特に一人で登っているときは、不安だし、怖いし、本当に泣きたくなることが多々ある。
だけど、それに耐えながら、ただただ疲労感が増して、自分の命だけを守ろう、そして頂上にたどり着こう!ということだけが思考を支配した時。不安や恐怖を感じる余裕はなくなり、生きよう!生きて帰ろう!という考えだけが、自分を支えるのだった。(大袈裟だが。)
今年の登山初めの頃の武佐岳は、帰りに突然の雷雨に襲われ、危機一髪だった。
上りから天候は怪しかったが、山開きということもあり人の多さに安心もしていた。
けれども、雲の速さに自然と危機感を募らせた体は、自分が思っていた以上のポテンシャルを発揮して、かつてないスピード感で下山し、それまでの一番のタイムを叩き出した。(まあ、それはあまり良くないことではある。実際、まだ初心者である同行者に無理をさせてしまったのは大きな反省点だ。)
今年の羅臼岳では、帰り道に仙人のような風貌の登山者に会った。
彼は観光客らしき人を連れて、テント泊しながら奥の硫黄山まで向かうと言ってきた。
長い白髪の顎髭を生やしたその老人は、表情なにこやかでありながら、眼光鋭く、腹の奥底から響くような声を発していた。
一体、何十年、彼はこの羅臼岳を往復し続けたのだろう。
山の怖さも厳しさも美しさも優しさも知っている彼は、あの世とこの世を行き来する案内人みたいに私には見えた。
師匠と山菜採りに行くときと同じような私の安心感が観光客の顔にも見えた。
足早に前を進むけれども、感覚は360度、研ぎ澄ましている。
陽の高さ、方向、風の強さ、向き、熊の痕跡、鳥の鳴き声。そして、私の歩む速度や足元への気遣い。
師匠はそのとき、自然との境界線を意識しながら、自然と一体だった。
あの老人と師匠の感覚を私はモノにしたくてたまらない。
それは忘我の境地にある。
自分を失くしたとき、人は自然を慮る。
そのとき正しさや善は、価値を超えて、技術になるような気がした。
喧嘩しないのは、したくないからだ。
感情をぶつけ合うことが非効率で無駄だとすら感じることはない?
私がそう言うと、そうです。そうかもしれない…と。彼女は言った。
それは彼女が、すこぶる賢いからだ。
理性的に物事を考えられる余裕があるからだ。
けれども、相手と心の距離が近くなると、簡単に心は揺さぶられる。
その戸惑いを味わえることは、ある意味、人間らしさだろう。
人に本来、価値はない。
生きていることに、意味もない。
でも、価値があると思うからこそ、意味があると思うからこそ、人は喜びも悲しみすらも味わうことができる。
私は幻であり、現実である。
山では、考えているけど、考えてない。
その隙間に自然があるような気がする。
