その方は、特に遠くの有名な山をほとんど登っていないと言った。登りたい気持ちはあるけど、暇がないから、専ら自宅から日帰りできる山ばかり登るんだという。
きっかけも、若い頃によく登山をしていて、コロナ禍になってから身体を動かさなくなり、危機感を覚えて、その頃の登山靴を引っ張り出してきた。
昔から知らない訳ではなかったが、ひょろひょろと細身の体に、どこか飄々とした雰囲気を持つ。無愛想なわけでは決してなく、むしろ人当たりが良い方だが、人との距離感が遠い。
仙人、と言えば大袈裟だが、感情の浮き沈みがほぼなく、人に興味がないというよりもむしろ、人の話をよく聞く人だ。
熊に出会った話を聞いて、私はその人のその不思議な雰囲気のことが少しだけ腑に落ちた気がした。
熊はとても怖いし、やっぱり出会った場所に来ると身構える。なんなら、少しだけトラウマになっているとも言って笑っていた。
特に怯えることもなく、ずんずんと先へ進むけれども、出会った場所に来ると、しきりにおーい!おーい!と声を上げて、自分の居場所を知らせる。
熊に出会った一度目はわりと遠い場所にいたが、こちらも向こうもお互いを認識できる距離にいたという。目を互いに逸らすことなく、こちらから声をかけながら、その場を通り過ぎた。
二度目は見通しの悪い笹薮の登山道の脇にいて、互いに出会い頭であったという。
こちらもびっくりしたが、向こうも驚いたらしく、ガサガサと大きな音を立てて、その時は逃げて行ってくれたから助かったと言っていた。
歩きながら熊のことや山のことをたくさん話した。私の方には余裕があったわけでもないが、話が出来る速度が自分に一番ちょうどいいペースだということを私は知っている。
山道に人がいるっていいなあ、とその方は何度も言った。
いつも、人がいない時間帯や場所を選んでわざわざ行くけれど、誰もいないのはやっぱり心細く、知らない人にすれ違うだけでなんだか安心する。とおっしゃった気持ちは私にもよくわかる。
帰り道に文明が近付いてくると、安心するね。文明から遠ざかるようなことをしているのに、おかしいんだけど、とその方は言って、私も深く頷く。
登山をする知り合いはたくさんいるでしょうけど、一人で行くのは楽だからなんじゃないですか?ペースも人に合わせなくていいし、寝坊して約束に間に合わないかもと気を遣わなくて済むし。と言うと、その通りなんだよ!と笑う。
去年よりもずっと、筋肉痛を引き摺る時間が少なくなっていた。
自分の今の実力よりも、少し無理めなコースに挑むことは、肉体も精神もレベルアップさせるために必要な過程だ、と心から思う。
その方が仕事の上でも、感情的にならず、人の気持ちを慮りながらも、自分というものをしっかりと持っていると思えるのは、こんなふうにたった一人で、肉体と精神を鍛えているからなのかもしれない、とも思えた。そして、一番に思うことは、この方はあらゆることに対する執着が薄いということだ。
山に登っていると、自分の世界に没入しているようで、どこか世界と自分の境目が薄くなるような感覚になった。
安静と躍動の間を保つようにして、死なない程度にその日のうちに自分を使い切れるようなペースを意識して歩くというのは、とても難しい。
汗が出た分だけ水分を補給し、雲の様子を観察し、私たちのペース配分を考えながら、日暮れまでに下山できるか計算しつつ、歩くその様子に大変勉強させてもらった。
残念ながら私たちは、着いていくだけで精一杯だった。初めてな上に自分の実力以上のコースだったという自覚はある。
けれども、どこがどんな状態でいることが一番危険でキツいか、予期しない出来事に対して、どんな心構えで対応するのかということが朧気ながら分かってきた気がする。
その方は、ありのままであり、あるがままだ。
人の感情に揺らされないように見えるのは、自分がどのような場面で揺らされるかをよく理解しているからだ。
それは高い視点で自らを俯瞰するというよりも、自分もそれを取り巻く世界もさほど違いがないということを無意識の中でわかっているからのように感じた。
山で無の世界に没入する。
でもそれは、西田さんの言うように可能性のある"無"だ。
何かを生み出す前の"無"。
その方は、目的も目標もなく、ただ"行為"によって、無から何かを生み出す。
自分がまず先にあって経験するのではなく、経験することで自分ができてくる。
純粋経験とは、反省を含まず、主観と客観が区別される前の直接体験だと西田さんは言っているが、その方と話していると、そのことが深くわかる気がした。
生意気な私の言うことを一切否定もアドバイスもせず、なるほど。といちいち深く頷いて、私はちゃんと話すのが初めてにも関わらず、そして人見知りにも関わらず、調子に乗って思わず話し続けてしまった。
会話は会話以上に意味をなさなかった。
言葉は歌のように宙を舞い、その方が頷く声に含まれながら、空に消えていった。
その方にとって、私はあの木や雲や、そして熊とさほど変わらない存在であることが心地よかったのだ。年も立場も上だというのに、こちらが身構えることもなく、自分が何者であるのかも意識することもなく、そして必要以上に気遣いをさせることなく、かといって甘えることもなく、接することができた。
登ることのできないと思っていたコースを登頂することができた。私は未だそのことを自分の誇りにするきらいがあるが、その方にとってそのことはさほど重要なことではないようだった。
人がいるっていいなあ。
何度も何度もそう口にするけれど、きっとこれからもその方はたった一人で近隣の山を登り続けるんだろう。
人の有り難さを知るため?
自分のスキルを上げるため?
いや、そうじゃない。
そんなことは、その方の過程であって、目的じゃない。
山は高く、雲は速く、水は涼やかで、空は果てしなかった。
意識がなければどこまでも無秩序な世界において、意識が形作る世界を感情を持って堪能していた。
最後に。
水、飲み過ぎだな。
と言われる。
はい。あまりにも水が甘かったもので。
欲望に抗えませんでした。と答える。
まだまだ、私には伸び代がある。
できないことや知らないこと、未熟な部分や欠けた場所がたくさんたくさん、ある。
それって、ものすごく素晴らしいことだ。
楽しいことなんだ、と思う。
私は私で、あなたはあなた。
でも、根本はいつも同じだ。
だからこそ、私とあなたの間には本来、境目がない。
娘から連絡が来る。明日、何時に来るの?
予定が大幅に狂った。歩けるけれど、また9時間以上の山行に挑む体力は快復しそうにない。
傷を癒すことが先決か。
心地よい痛みが、歩く度に太ももに響く。
壊れるほどにきっと、強くなる。
心も、身体も。