メンタルトレーニング | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。








  予習のために動画を見まくっているが、どれもこれも当たり前だがキツそうだ。


  見る度にワクワクよりも、不安と恐怖の方が大きくなってくる。


  前までは、ルートの確認だけして動画を見ることはなかったが、迷わないための風景や、どの辺が一番キツイのかを確認するために見るようになったのだが、まったく知らない状態の方が、ワクワク感だけで登れていた気がして、少しだけ後悔している。


  今年、キツかったのは雄阿寒岳だ。

  三合目から五合目までの急登がキツ過ぎて、初めて本気で引き返そうかと考えて泣きそうになった。


  けれどもそこを過ぎればなんのその。下山後もさほど疲れを残さず、筋肉痛にもならなかった。


  去年の岩尾別側からの羅臼岳のキツさを思い出してきた。

  景色の美しさや登頂の感動よりも、辛かったことが大きく思い出されてしまう。


  斜里岳もキツいが、羅臼岳は違う意味でキツい。

  何しろ、時間が長い!


  体力も筋力もたぶん大丈夫。

  足りないのはメンタルの強さだ。


  コースの半分を過ぎたところ、泊場からが問題だろう。

  岩尾別側からの合流地点からは経験があるから安心だ。しかし、頂上付近の岩を登るまでの体力と気力をどうやって残しながら歩くのかが問題だ。


  季節的に雪渓は残っていないにしろ、昨日の雨がどこまで乾いているか。

  水は4Lで足りるか。行動食をどのタイミングで補給するか。重さが軽く、少しの量で高カロリーのものを選ぶ。

  

  どこかで見た情報によれば、このコースで3kgも体重が減るとか言っていた人がいた。


  確かに暑い日の6時間コースでは、1日に1.5kgは余裕で減る。しかし、それは、水分補給が上手くいっていなかった証拠でもあるように思う。



   連れて行ってくれる人のコースタイムは、6時間だという。

  私たちの想定する時間の半分!


  私たちの羅臼岳のコースタイムを告げると、ヘッドライトを持ってきてね、と言われた、夜明け前に出発しても、日没までに帰ってこられないと踏んだのだろう。(そりゃそうだ。)

  

  同じ人間なのに、どうしてこうも違うのか…と思うと同時に、同じ人間なのだから、自分もできるはず!と思えるところに希望を持つ。


  しかしここが登れたら。

  日帰りできる山(登山道が整っている山)は、ほぼ全部登れるだろう。

  きっと、自信がつく。

  しかし、無理だと思ったら、引き返すという勇気を持つことの方が大事で、そしてその選択の方がずっと難しいことも知っている。


  一日の中の12時間も歩き続ける、と思うのか、この長い人生のうちのたった12時間しか歩かないんだぜ?と思うのか。


  つか、平地ですら12時間も歩いたことないわ!行きはいいとしても、帰りにあのざれた急登を下る余力が果たしてあるのか??と考えたりして、いやいや。

  

  人は成功からではなく、失敗から学び過ぎる。と苫米地さんが言ってたことを思い出す。


  辛かったことよりも、楽しかったことが多かったからまた次も登れた。


  ホメオスタシスは、現状を維持しようとする力。

  けれどそれが、不安や恐怖を呼ぶ。

  けれども、そこに囚われていては、レベルが上がらない。


  辛い急登のときに何を考えていたのだろう。

  …何も考えていない。

  あとどれくらい?と考える余裕もなく、心拍数を上げすぎないスピードで、一歩一歩とただ進むだけだ。


  あれこそが、純粋経験なのかもしれない。

  


  登る、という行為以外に意識が向かない。

  そこには、私という存在すら意識できない。

  涼しい風も景色も堪能する余裕がない。


  そのときの私は、山を登っていると同時に、山が私を引き寄せているような感覚に陥る。

  歩いている、そして、歩かされている。


  進んでいるようで、押し出されているようなあの不思議な感覚。


  すると突然、景色が開ける。

  足を止めて振り返ると、眼下には壮大なパノラマの景色!


  五感が一気に開けて、思考するよりも先に飛び込んでくるのは、圧倒的な感情の波だった。


  「主客合一」

  「絶対矛盾的自己同一」


  そうか…。

  私は自分を消すために、本来持っていたその感覚を思い出すために、山へ登っているのか。



  ー行為する刹那、未だ主もなく客もないー

   

⤴︎採りたてを速攻蒸した。

  プリプリで美味い!