首とメメント・モリ | 想像と創造の毎日

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。




  一言で言えば、好き。である。


  北野武監督の作品を全部見ているわけではないが、ストーリーの複雑さや謎解き、わかりやすい感動、震え上がるほどの残酷さ、生きるヒントとか、他の映画で得られるような意味とか感情の震えとかカタルシスとか、充実感とかが一切ない。


  純粋なエンタメに私には思える。内容がニヒリズムっぽいからこそ、俳優さんたちの演技を純粋に楽しめた。


  一般的な戦国武将物を見る構えで眺めていると、冒頭から武将同士の恋愛シーンが出てきて、思考がパニックになる。


  忠義とか忠誠とかいう武士の精神の美しさが一発で吹き飛び、加瀬亮演じる信長を始めとした武士たちの徹底的な醜さの方に逆に美しさを感じ、自分の良心が揺らぎ始めて、不意に呼吸が荒くなる。



ーニンゲンは犬に喰われるほど自由だー


という藤原新也さんの写真集の言葉が思い浮かんだ。




ーおびえ、威嚇し、啀み合い、咬み合い、吠え、牙つきあて、肉や骨、散らばり、攻め寄り、競い、博ちつかみ、唸り、恐れ、飢えつかれ、貪り喰らい、入り乱れ、闘い、引きずり、啀み歯噛みして吠え、なめへずり、むしゃぶりくわえ、猛り転がし、涎たらし、憤り、歓び、飢え、哀しみ、楽しみ、戯れ、猛り、泥にうずくまり、跳ね、飛びすさり、往ったり復たり、追ったり追われたり、遊びまわり、飢え渇き、叫喚す。ー

  写真集にあるこの一説の全てが、この映画の中にある。


  狂ってる。という木村祐一さん演じる曽呂利の言葉がすべてを物語っているが、武士たちの互いの信頼関係、そして圧倒的な狂気への崇拝を恋愛感情と混同していく場面と、それを冷ややかに眺める北野武演じる秀吉の対比が面白い。

  "宗教の起源"では、カルト宗教の教祖や信者の脳は、統合失調症的な症状が見られるという。
  脳室が大きくなり、側頭葉と前頭葉の灰白質が現象しているというのだ。この状態は、宗教体験やトランス状態と結びつくことが多い。LSDなどの薬物摂取によっても起こるだろう。


  恋に落ちた時にも、前頭葉の働きが一時的に下がるという。

  前頭葉は、思考、判断、情動のコントロール、コミニュケーションといった高度な分析、判断を司る。

  人間はその部分が脳の30パーセントを占めていて、哺乳動物の中でも特に発達している。


  人は、ヒト特有の前頭葉をはじめとする新皮質と呼ばれる部分で、他の動物とは違う高度な社会性を獲得し、理性的に論理的に思考し、行動できるようになったにも関わらず、欲や情動といった旧皮質の機能がなければ、生を存続できないという脳のある意味矛盾した部分がいつも歯がゆい。


  新皮質を使って、平和を獲得しようと試みるも、旧皮質がそれを拒んでいるようにも思える。


  映画"首"とは、脳の話かもしれない。

  

  信長に仕える黒人の弥助が、この黄色い猿野郎!と罵るシーンがあるが、弥助がイエズス会の宣教師に連れられてきた従者であることを鑑みると、"高みから道徳を説く神"=一神教を持たない戦国時代の武士たちが、ヒトの新皮質の機能を使えないサルとしか見えなかったことも頷ける。


  しかし藤原新也さんは、その機能に特化した科学信仰の社会に異を唱える。


  科学的思考は、幸福の追求、健康な生命の永続、ついには万能的な機能としての人間の進化を私たちに押し付けてくるようで時々気持ちが悪い。


  死や病はいつのまにか悪者にされ、私たちは常に全ての人間、あるいは持続可能な社会、地球環境のためにあらゆる自由を手放さなければならなくなっている。

  

  世界には、まだ、埋葬せず、死体を野生動物に喰われるままに放置する場所がある。

  映画の中でも、頭を落とされた首にカニが群がるシーンがあって、リンクする。


  首を落とされた肉体は、自由の象徴のようだ。