私は矢印(夏登山6回目) | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

 低い山とは言っても、そこそこの大きい斜度の登山道が続く。

  今度こそ、日帰り登山制覇の最後の山である。


  本当は斜里岳の予定だったが、みーちゃんが連闘のため、出走回避した。

  馬場状態は良。

  

  みーちゃんは第3コーナー(だいたい7合目あたり)辺りから早くもかかり始め、後半バテている。私は中1週のため、脚色が良い。


  しかし、短距離ほど、体力温存の仕方が難しいと感じる。

  それとも、心構えの違いだろうか。

  低いから楽だろうと考えるのだが、いざ登ってみると想像してたより辛い。

  初めての山だから余計だ。

  ゴールが見えない。

  だから頂上が、突然現れて気が抜ける。

  まだかな、まだかな。あ、もう終わりか。

  一時間ほどで登頂する。

  それでも眼下に広がる眺めは、しっかりと頂上を制したときの達成感を存分に味合わせてくれる。


  街は低く、遠くにあり、近くにある山々がすぐ側に見える。


⤴︎︎︎たくさんの花に出迎えられて始まる登山道


  登山道はしっかりと整っている。

  草や笹は綺麗に刈られ、木の枝は邪魔にならないように剪定されている。

  この山の環境上、歩くリズムを崩す段差の激しさの原因となる木の根や岩は全くない。

  低い山だから、頂上付近まで背の高い木々のある景色が続く。視界が遮られ、頂上を眺めることのできない道が続く。


  この整えられた綺麗な一本道がなければ、私は今いる場所を認識すらできない。


⤴︎三角山との分岐点。英嶺山は羅臼町の街中の高台にある知床未来中学校の左側から登ることができる。


 ー自分というのは、地図の中の現在位置の矢印程度で、基本的に誰の脳でも備えている機能に過ぎない。ー


  養老さんが言っていたこの言葉の意味を考え続けながら歩く。



⤴︎少し進むと左側に沼が


  だから、自己の確立とか、個性の発揮だというものは、そうたいしたものではないとおっしゃる。


⤴︎少し登ると見える知床横断道路の手前。その少し先には羅臼岳がそびえる。冬はここを境目にして気候が突然変化する。この手前の街中では晴れていても、ここを境目にして吹雪になることがよくある。なので、冬期は峠が通れなくなることも納得だ。


  なぜ、人間の目は前にしかついていないのか。

  ほとんどの生物が目を二つしか持っていないのか。


  命が常に自分や自分から続いていく命のために進化するとするならば、360度の視界を捉えられる位置に目を移動させ、なんなら目の数ももっとたくさんあってもいいではないか。


  自分を取り巻く全方向に満遍なく意識を向けられる機能に進化させないのはなぜなのか。


⤴︎最初の分岐点から100mほど進むと三角山に到着する。先には羅臼港が見える。


  私は意識を足元や自分のすぐ前に続く登山道にしかほぼ向けられない。


⤴︎羅臼の中心街。前には海。背後には知床連山かすぐそばに連なっている。崖崩れが起こると、国道は通行止めになりしばらくの間、陸の孤島となる。反対側の斜里町よりも、あまり観光化が進んでいない。なので、ありのままの知床遺産、そして古くから続く街の雰囲気を味わいたいのなら、断然ここがオススメだ。


  遠くを見据えながら登ると心が折れる。

  今、この瞬間のたった一歩を進めるためだけの意識を持続させる。

  その積み重ねが、いつのまにか頂上に私を導いていた。


⤴︎登山道の真ん中辺りから見える羅臼岳。この山の三倍の高さだ。雲がちょうど途切れる。まだ雪渓が残っている。


  全方向を把握出来ない不完全な機能は、補う合うための優しい欠如に思えた。


⤴︎頂上から見える標津方面の山。


  私が私をより深く体験するために、価値や意義や意味を自ら作り出す。


⤴︎頂上には熊の木彫りが。


  養老さんは人体や虫を深く観察してきた。

  その環境にいれば、自分というものは自然の循環の一部にしか過ぎないと考えることも当然だろう。

  その佇まいは、常に飄々てしていた。



  自分というものに価値や意味をつけようとするほど、人は傲慢になるのだろう。
  価値を高めたり、意味を見出そうとすればするほど、人や環境をコントロールしたくなる。

  知るほどに、わかったつもりになるほどに、自分の思考は狭まる。

  受け入れられないものが多くなり、自分の正しさの中に閉じ込められる。

  私はただの矢印か。
  そう考えると、間違いとか正しいとかいう判断を手放して、ありのままで物事を見られるような気がした。

  ただこの一歩を進める力だけを意志と呼んでみる。
  そんなに大それた志など、本当は持っていなかった。