勝手に芽を出したかぼちゃも、枯れかけている。
ぶどうなんて、ハウスの中にも関わらず、端っこの外気に近い場所は、葉が枯れ始めている。
カッコウは鳴いているが、豆なんてまだまだ怖くて植えられない。
去年の気温が奇跡的だったと言えば、奇跡的だったのかもしれない。
やはり夏は霧が多く、低温多湿の釧根大地は、稲作にも畑作にも向かない不毛な大地だったことを実感する。
キュウリとカリフラワーは、まだまだハウスの中で待機状態だ。
この気温では、すぐに枯れてしまう。
そんな中でもイチゴは結構強い。
しかし、私の知らんうちにこんなに手厚いことになっていて、思わず笑った。
師匠は特にイチゴを食べるのが好きではないのだが、私が収穫を楽しみにしているくせに大して世話をしないことに業を煮やしたのだろう。
ウロチョロしているキツネに尿をかけられたり、カラスなどにいたずらされてはいけないと網をかけ、雨が降った時の跳ね返りで実が泥をかぶらないように刈った草を苗の周りに敷き詰めてくれている。
山に登っているときは、まったく寒いと感じなかった。気温は10度ちょっとしかなかったのだろうが、半袖でも終始、汗だくだった。
しかし山頂で長く休憩していると、震えるほど寒くなる。
動くことで内側から燃え上がるようなあの熱のことを思い出すと、意識できない部分で命を継続させようとする細胞一つ一つの働きが健気に思えて仕方がない。
植物たちは、その場から動くことが出来なくて、情緒不安定な空の機嫌に抗うこともなく、なすがままだ。
頂上にある木の影で大勢で並んで、強い風から身を守るように互いに身を寄せ合う虫たちや、強い風に倒れないように小さく背を低くして咲き続ける花たちを見つけると、自分も疲れているからなのか、ちょっとだけ涙腺が緩んだ。
ありがたさというものは、過酷な環境に置かれて初めて湧き上がる。
人々の快適な暮らしを支えるためにこんなふうに人知れず、働いている人達がたくさんたくさんいるのだ。
歩きやすく整備された登山道でさえも。
山を愛する心と、それを一人でも多くの人にできるだけ安全に味わって欲しい願いでできている。
一昨日の山のことをつまんない山だった。と思う気持ちになって、ごめんなさい。 と反省する。
さも当たり前のように、登山道を何度も往復して、パトロールしていた山岳会の方たちには尊敬しかない。
ひとりでは。楽しむことはおろか、苦しむことすらままならないのだ。