先日、親戚のお通夜に行った。
故人はさほど若くもなく、闘病の果てに亡くなったためもあるのか、遺族はみな落ち着いている。
突然の死や、若い方の通夜、葬儀だと、ご遺族がまだ故人の死を受け入れられていない場合が多く、見ている側としても辛い。
私の興味といえば、相変わらずその家が信仰している宗教のことで、今回もあまり見たことのない宗派(新興宗教)だったため、お経や祭壇の作りや儀式の流れなどに思わず注視してしまう。
普段、死後の世界、そして神や仏のことなど、さほど意識していないのに、ほとんどの人がこの時ばかりはまるであの世があるかのように故人の行先のことを話すのが不思議だ。
僧侶(のような)に至っては、まるで見てきたかのように死後に渡る世界のことを話す。
でも、宗教によって死後の世界はまるで違う。
うちのおかんは、最近よく、自分は義理母と死んだ夫と同じ墓に入りたくないなどと言う。
そしたらどうすんだよ。あんたの骨だけ、海に散骨するのか、それとも最近のお寺でよくおすすめされる樹木葬にするのかよ。と言うと、うーん。と母は困り果てる。
というか、そんな言葉が出てくるということは、母は死後も自分の意識が続くのだと信じているということなのか。
死んだらまた、お墓の中で嫌だった家族とまた一緒に住んで苦労しなくてはならないとでも思っているのか。
私は母のその考えがおかしくなり、大笑いしてしまうのだが、母も私の言葉に少しだけ自分の考えがバカバカしく思ったようで、私につられて笑ったのだった。
養老さんは、人間とは世間だとおっしゃる。
"人(ヒト)"は、動物…というか"モノ(it)"であり、日本人にとって死体は、世間である社会から排除される存在として扱われているという。
その証拠に葬儀のあとには塩で身を清めたり、死んだあとには戒名を付けられて、生きていたときの名前は俗名とか呼ばれる。
犬は犬、猫は猫しかないのと同じように、人には"人"という言葉だけで良かったのに、間を付ける必要があったのは、日本では"世間の人"であることが"ヒト"であるというふうに考えられてきたからだという。
その考え方が制度化されたのはおそらく江戸時代で、それは"非人"という存在が明確化されたことによる。
日本人というものは、排除する民族なのかもしれない。と確かに思う。
通夜のあとに親戚一同が会食をしていたのだが、あそこの嫁は気が利かないだとか、あそこの息子は頭がおかしいとか、そんな話をする年寄りもチラホラいて、その血縁関係が共有してきた掟のようなものを破るものが親族で現れたら、途端に排除される対象となるのである。
だからと言って、言っている本人に限って親戚が困ったときに助けるような人柄でもないことが、まったくおかしく、笑えると思うのだが、私は特に嫌な気持ちになるわけでもなく、その人を不思議な生き物のように眺めてしまうのだから、私は人間であるというよりも、ただの生物カテゴリーで分けられた"ヒト"なのかもしれない。
それでも昨今の若い人たちは、年寄りに付き合うことなく、こういった義務のようなことを適当にやり過ごす技術に長けているな、と思う。
私よりも年若いいとこたちは、こんなときにしか威張れないようなしつこい年寄りたちを笑顔でなんなくかわし、いつまでも若くて元気ですね。なんて言いながら、気分良くさせつつ、すっと帰宅なさる。
コロナ以降、簡素化された儀式に年寄りたちは不満そうだが、若者にとっては面倒が減ったということになるのだろうか。
テレビのニュースを鵜呑みにし、それ以外の情報を取れない世代は、リアルな繋がりがなくなってしまうと、他人とのコミュニケーションを取る方法がなくなってしまうのだ。
自分もこうなるのかね。と私は嫌悪と同情が入り交じった目線で彼らを眺める。
いまは昔よりもずっと、いろんな価値観に触れられる機会に恵まれている。
欲しい本はネットで買えるし、テレビでは伝えられない情報も手に入る。
師匠は時々、とても寂しそうだ。
仕事がほとんどなくなり、趣味を行うにも若い頃のように身体がついていかない(とは言っても、私よりも体力はある)。
耳は遠くなり、どんどん進歩する技術にはついて行けなくなる。
そして、新しい価値観を受け入れられない頑固さで、人を遠ざけてしまう。
こないだは、スマホにナビを入れたいと言い出したのだが、私は拒否した。
なぜなら、カーナビも、LINEやメールですら、教えても面倒でまったく使わないのだから、地図アプリなんて入れてもギガの無駄だと思ったからだ。
しかしそれを正直に言うと、案外繊細な師匠の心を傷付けてしまうから、紙の地図が読めるんだからそんなの必要ない、私は紙の地図すら頭に入らないバカだ。だから、ナビがないとどこにも行けないけど、師匠はナビがなくても経験と地図を読む能力がある。
風景を見たら、ここはどこかすぐわかることは凄い。と伝えてなんとか窘めたのだった。
本気でスマホの使い方を覚える気がないのは、それが自分に必要だと思っていないからだ。
師匠には、若者にはない身体機能が備わっている。
その事を誇りに思わなくなる師匠のことが、私は時々とても腹立たしいのだ。
最新の釣り道具や銃や、ipadとかそういうのを羨ましいがっているのを見ると私はついつい怒りたくなる。
そして世間を大事にするあまり、自分の常識に外れたものに対して差別的な発言をする師匠を私が許せるのは、その身体機能を尊敬しているからなのだ。
師匠は熊と鹿を撃ち殺し、時々俗世から離れる。
その時の師匠の目は、血走っていてものすごく怖い。
哲学や思想を本からではなく、世間と自身の肉体から培ってきたことは素晴らしい。
ちなみに師匠は、今回の故人のことが嫌いらしかった。
それが顔にまっすぐに出てしまう単純さと正直さが、ひどく煩わしい。しかし同時に愛おしく思える自分がおかしかった。
人間、世間はめんどくさい。
だけど、だからこそ、愛おしいものなのだった。